mum&gypsy

マームと誰かさん・ひとりめ
大谷能生さん(音楽家)とジプシー

〔東京〕2012年511-13日/SNAC

撮影:飯田浩一

▽ パンフレットより(藤田貴大、大谷能生対談)

異ジャンルのアーティストとのコラボレーション企画「マームと誰かさん」シリーズ第一弾は、音楽家の大谷能生が登場。演奏者・作曲者・パフォーマーでもあり、同時に文筆家・批評家としても活動してきた大谷が、マームとジプシー藤田貴大とどんな邂逅を果たすのか?


大谷能生氏の他に、飴屋法水氏(美術家・演出家)、今日マチ子氏(漫画家)との共作を発表する。


50-50の共作


——一緒にやることになったきっかけは?


藤田 去年の『あ、ストレンジャー』(20114月@SNAC)で初めてマームを観てくれて、それからは、近所だから、急な坂スタジオ(横浜)の稽古場にも何回も来てくれたり、個人的に大谷さんちに遊びにいったりしてるうちに、「いつか一緒にやりたいね」と。


大谷 最初にマームとジプシーを観た時から一緒にやりたいと思ったね。藤田くんが得意とする「反復=リフレイン」の作業は音楽の基本的な要素だし、と同時に即興的に「現在の時間にいる」のが興味深くて。というのも、もともと自分の出自として、まずインプロバイザー(即興演奏家)の90年代から2000年代のシーンが根幹にあるんだけど、それはどちらかというと反復を拒否して「常に現在形でいる」ことを追求する仕事だったんですね。それと同時にブラックミュージックに基盤を置いて、ブルース、つまりある種の繰り返しや歪みによって過去と未来を繋ぐ作業も並行してやってきた。その両方があるから、マームの身体の動きとか言葉のシンタックス(文法)にシンパシーを感じて、すごく協力したいなあと思ったんだよね。


藤田 めっちゃ覚えてるのは、去年の夏の『待ってた食卓、』の稽古で切羽詰まってた時期に、大谷さんが稽古場に来て「藤田くん、今度音楽の話書いてほしいんだよね!」とか言ってきて。めっちゃ面白そうだけど今それを言うのか?って。ぼくの状況とかおかまいなしに自分がやりたい作品の話してくるんですよ(笑)。でも音楽の話は書きたいと思ってた。だから今回は、起点としては「音」の話から。音にどう気づいていくか? どんな時に音楽を聴きたいか? そういうことを去年の夏から会うたびに熱く語ってきましたね。大谷さんへの信頼感はそこにあります。


大谷 やりたいことしか言わないからね(笑)。


藤田 こないだの岸田戯曲賞の授賞式でも、ふつう「おめでとう」とか言うじゃん? でも会うなり「やりたいことがめっちゃ出て来た!」とか(笑)。でも逆にそっちのほうがぼくも嬉しいし、いつどこで出会ってもアーティスト同士として話すしかないから。今回も、どっちかから誘ったという野暮な話ではないと認識してます。まあやるんだろうな、と思ってましたね。今回は共作という態度をとりたい。ぼくだけの美意識でこの舞台を進めたくないし、大谷さんと50-50で最後までやっていきたい。


大谷 最初は「マームとジプシー+大谷能生」ということで必要な音楽だけ提供する予定だったんだけど、SNACちっちゃいから隠れる場所もないので、じゃあ出てしまおうと。こうやって現場から立ち上げていくのは楽しいね。だけどこんなに俺がやっていいのかというためらいが一瞬ある(笑)。マームとジプシーを観に来た人は困るんじゃないかとも思うけど……まあいつものことですから、困らせてやりましょうという(笑)。


藤田 ただ最終的にマームとジプシーとして回収はしてくれ、とは言われてて。


大谷 そうだね。俺の能力は全部出すけど、マームとジプシーの中でやるという。


藤田 ただ最初からそういう態度で来られてもこぢんまりした作品になるに違いないから、まずは大谷さんに暴れてもらうしかない。そこをぼくがどういう大きな枠で受けていくのか。やっぱり喧嘩も必要だし、頑固さのぶつかり合いというのは今もやれてると思う。


「音を聴く」ということ


大谷 今回のテーマは「音」なんですが、演劇を観ててちょっとつまんないなと思うのは、役者が音を音としてちゃんと聴けてない状況で、客を無視してステージ側だけで完結しちゃうことがままあるということ。そうしないと不安なのは分かるけど、もっとやれるでしょ、という。


藤田 そこはぼくも今ジャスト悩んでて。1月にいわきの高校生と『ハロースクール、バイバイ』をつくった時に、そもそもみんなが役者を目指してるわけじゃないから下手で無防備なんだけど、でもマームに出てる役者よりも体当たりだったんですね。盾にしてるものが無いの、あいつらには。それで帰ってきてからマームの役者に当たり散らしてるんだ、今。役者がぼくを盾にして言い訳にしてるのが気に入らないし、ぼくが決めたきっかけでしか動かないのも疑問で、それをどう解体するかをやったのが3月に京都で上演した『LEM-onRE:mum-ON!!』。喋り出すきっかけとか結構決めずに、ちゃんと他の音を聴いてなきゃセリフが出せないようにした。


大谷 自分でしっかり音を捉えたら出ろ、そうでない時は出るなってことでしょ。役者が戯曲の影に隠れないという。


——LEM-onRE:mum-ON!!』もそうだし、大谷さんが2月にダンサーの岩渕貞太さんと組んだ『living』も、まさに「音を聴く」というテーマが共通していたと思います。そういう話は2人でしてました?


大谷 あんましてないよね。普通にその前から音楽の話はしてたけど。


藤田 たぶんお互い、戯曲と音楽をそれぞれ用意するイメージだったから。でもその話をしたらすんなり2人とも聴きながらやってこうってことになった。ただしインプロ演劇とは一線を引きたくて、ただ役者が自由になるのが面白いわけじゃないんですよ。こないだ映画美学校の大谷さんの授業を聴講しにいったら、ちょうど1935-1945年の、スイングからビーバップが出てくるあたりの話だったんだけど……


大谷 チャーリー・パーカーのところね。


藤田 サックス奏法ってちょっと即興あるじゃん、ざっくり言えば。でも拍はあるんですよ。


大谷 コードもあるしね。


藤田 で、その講義で使ってた言葉が面白くて、「ゲーム性とスポーツ性」。要するにサッカーもルールがあって、結末はどうなるかは決められてないけどサッカーとして成立してる。


大谷 自分の判断とモチベーションでゴールに向かっていくわけだね。


藤田 つまりあるルールの中でどういう読み口でやってくかってことが即興なわけですよね。なんでもやっていい状態ではない。作家が書いてないような無軌道なセリフを、役者がただ単に自由にアドリブで発したりするのはすごくイヤです。その「ゲーム性とスポーツ性」って言葉はぼく的にはツボだったんですけど、他にも大谷さんがポロッと何か言ってくれたりするタイミングがある。言語が違うから面白い。そもそも「リフレイン」って言葉も演劇用語ではなかったわけだし。


——それが今や岸田戯曲賞の選評でも普通に使われはじめましたからね。


藤田 数年前は「反復」か「リピート」って呼ばれてたと思います。もちろん反復を最初に舞台でやったのはぼくではないけど、「リフレイン」は音楽用語だったのを使った。今も違う人の血液をぼくの中に輸血作業したいと思ってるし、演劇だけやってたり、稽古場で闇雲にぼくが怒ってるだけでもダメで、そこが詰まってきたんだと思う。


大谷 まあでもよく2、3年で詰めたよね、とも思うよ(笑)。音楽の世界では様々な実験が行われてきたんですよ。特にレコードやCDいう複製物として固めたものを再生して聴くようになり、しかも共有せずに個人で聴くようになって、音楽は変わらざるをえなかった。だからみんな苦労したんですね。その試行錯誤の遺産は今の演劇で相当使えるし、演劇の人が無意識に前提にしてることも見えてくる。無意識だとやっぱり力が上がんないから、そこを強引に構造に引っ張り出して言語化すると力が上がる。そこの言語化のお手伝いというわけじゃないが、「見てて面白いけどそれってこういうことだと思うよ」という話をする相手としては今ぼくは適任者だと思う。


音楽が「亡霊」になった時代


藤田 大谷さんとは、音楽が「亡霊」になった時代についても話してて。レコードはまだ針がこする音も聞こえたけど、でもコンパクトディスクが出てきたことによって完璧に過去にものに落とし込めちゃった。しかも結構クオリティ高い。


大谷 傷つかないからね。


藤田 電車の中でみんなイヤホンを耳にはめて。死んだ人の声を聴いてるのって、異様な光景に見えてきた。


大谷 ずーっと過去を聴きながら、現在を無視して生きてるわけだよね。


藤田 そう。蘇生術じゃないけど、何かを蘇らそうとみんな頑張ってんじゃないかなと思って。


大谷 現在を意味づける時に、過去を頼りにしてしまう。今あるものは切って、何かしら確実になったものだけを把握するのが確実だからね。逆に言うとそれは、現在を、現在の段階で過去にしていくことだよね。写真に獲ると現在がそのまま……


藤田 写ルンです理論!


大谷 そう、写ルンです理論(笑)。写真を撮った瞬間に現在を過去形で考えることができるという。


藤田 過去と現在をその瞬間に分離させる装置、それがつまり……写ルンです(笑)。


大谷 思い出作りプロダクション、または写ルンです理論と我々は呼んでいます(笑)。でも亡霊というのは、そいつとアクセスしようとするから立ち上がってくるわけだよね。CDはただのモノなんだけど、そこに過去が立ち上がるのは、こちらから聴きに行くから。過去のものなのに、現在に持ってくるっていう。だから亡霊と付き合うのは決してネガティブなものではない。過去を殺さないということだから。終わったものを終わらせないというか。


藤田 それはぼくの言葉でいうとリジェネレートしてるわけですね。過去に書かれた戯曲を、生身の人間に繰り返し発話させていく、それでテクストが蘇ってくるのがリジェネレート。実はリフレインよりも重要な作業なんですよ。


(続きはウェブで)


身体性と、書くということ


——大谷さんは最初の単著である『貧しい音楽』や、その前身である音楽批評誌『エスプレッソ』の頃からずっとそういう、複製芸術と音楽の関係について考えてこられましたよね? その後、ダンスにも関わるようになって、今こうしてマームとジプシーとの共同作業の中でその理論的なものが具現化しようとしているのが面白いと思います。


大谷 そうですね。これまで自分の中で繋げられなかったものとしては、演奏の身体性と、書くということ。まず即興演奏は現在を過去から切断するっていうことで、つまり繰り返しをしないわけですよ。現在に現在を重ねていく。そしてマテリアルが終わったところで終わる。そういう演奏のイディオム、あるいは主義ですよね。しかしそれをやってくと過去を使うことができなくなるから、共有できるものが相当減っていく。それがいいと思ってたわけ、純粋だから(笑)。自分が演奏家としてステージに登った時に、何か後ろにあるものに引っ張られないで目の前にあるものを続けていく。それは完全に自分の生身で、ここにいて責任とってやってくということだよね。ただ、もうひとつは字を書く、その言葉の問題ね。ぼくは半分くらい文字を書く人間で、読み書きする時に生まれる時間がある。そこと身体性をどう繋いでいくか、というのがここ10年の後半部分で取り組んでいる仕事なのよ。結果としてステージ上で発話とかしてますが、書いた文章をステージに乗せて、現在形で人に向かって言わせることで生まれる時間の大きさ長さの中で、身体性を消さない、って作業をどうにかしたいなあと思ってて。ダンスも芝居もそういう興味が強くて観てるわけです。藤田くんの戯曲は、文章なんだよね、ちゃんと。時間が流れる文章になっている。それが発話されてマームのステージに乗っていく時の関係をもっともっと近くで見たいなあと思ってた。


——藤田さんも、ずっと稽古場をある種の実験室にしてきましたよね。役者の声や身体から生まれるものを台本に書いていく、という作業を繰り返してきたというか。


藤田 そこを照らし合わせて、ずっと並行させてやってきましたね。だから最近原稿とか書いてても、結局身体的になっちゃうというか、動いてないとダメ。絵として、人が、文章の中で。みたいなことをすごい想定して書いてるから。文章書く時も演劇と切り離せてないですね。


大谷 俺はそこを切り離してスタートしたんだよね。散文は散文、演奏は演奏って。だから分かりにくいって言われてたんですね、存在が(笑)。


——今も言われてますけどね(笑)。謎の存在として。


大谷 どっちかしか普通やんないからなあ。文章書く人はライブの現場にいかないし、ミュージシャンは文章なんて読まないし書かないし。学校の廊下とかでさ、野球部の人とも仲良いけど、マンガ研究会の人とも話すみたいなもんだよ(笑)。今まではそこを統合しようとも思わなくて、どっちも現場があるから突き詰めてたんだけど、もうそれじゃいやだなあー、というか。書いてる人間も現場で現在形でもっとやろうよ、って思う。たとえ物書きでも、何かとコミュニケートしながら現実の中に作品を落としていく作業をやったほうがいいんじゃないかと思って。今や何もかもデータだけど、データ自体は無料だから商品としての魅力はなくて、それが現場でどう使われるかが面白くなってきてるわけですよ。その宝をどう使うかってことを、物を書いてる人も現場に降りてきてやらないとよくないんじゃないかと思って。


——そうなるとしかし、書く文章の質も変わってきますよね。


大谷 うん、質も変わる。ただ単に黙読してる人が30万とか40万とかいるわけでしょ、気持ち悪いじゃん!(笑)そういう人たちが全員口に出して発し始めたら、単純に読みましたハイ終わりにはならない。もっと外に行こうぜっていう。そのきっかけをつくろうと思ってやってるのが、朗読とか、ステージ上に言葉をどう置くかとか、ライブと繋げてみるとか……。そういう試行錯誤をここ2、3年やってきたけど、今回はどうも演奏の感覚なんだよね。そこらへんがヒヤヒヤする感じ。言葉と繋がらないのよ、演奏してる時って。


藤田 でもそのヒヤヒヤ感でいきたいですね。


大谷 まあ、それが俺の持ち味なんで(笑)。


藤田 演劇自体が、朗読でもなく、ストーリーでもなく、ちゃんと音楽としてもあって、っていうギリギリのせめぎ合いのところでなんとしてもありたい。だから大谷さんはほんとに無機物の楽器でいいと思うし、そこに言葉が奇跡的にぴゅーんって付いたら凄いと思う、演奏してる最中に。


大谷 そういう形で演奏して受肉できればお客さんに伝わるだろうから、その作業はしたいねえ。


大谷能生の存在する次元


大谷 そういうのが面白そうだというのはなんとなく直観的にあった。単に音だけ提供するんじゃなくて、音楽との関わり方からしてつくってく、ってことをできれば後はなんでもできるかな、と。これができたら、あらためてまた大きな戯曲でもやってみたいし。


藤田 いつか来たる、そういう大きな場面にいく前に、しっかりぼくが音に対してどう考えてるのかをやっておきたかった。実際に作品つくんないとアーティスト同士って普通に喋れないと思うんですよ、ほんとの意味では。それは大谷さん以外の「マームと誰かさん」の2人、今日マチ子さんと飴屋法水さんもそう。なんとなく会ってラフに話してたって共鳴してこない。大谷さんの音に対する考え方も、酔った勢いとかでなく、実際にシビアに作品をつくっていく中で聞きたかった。それをしたらやっとフェアに、ぼくの戯曲に大谷さんに音楽つけてもらうこともできる気がする。出会い方って大事な気がしてて。


大谷 そうだね、作品で出会うのがいいよね。


——大谷さんの家で2人で曲をつくってましたけど、ああいう作業はかなり一緒に?


藤田 いや、あの日くらいですかね。大谷さんつくるの早いんですよ。ギターとドラムがユニゾンしてくのが欲しい、とか言ったらすぐにできたり。問題の、青柳いづみの歌うポップソングも……


大谷 オリコン入れようぜ!(笑)


藤田 5月は季候もいいし、爽やかな緑っぽい感じがいいですね、とか言ったら、じゃあ藤田くんちょっと鼻歌うたってみてよ、とか言われて歌って、歌詞書いたら半日くらいでできた。


大谷 そんなもんだよポップスは。基本、方程式があるから。


藤田 例えばこのワンフレーズ増やしちゃったらいけないからもうこれは要らないとかの方程式を教えてもらって、じゃあサビもう1回ですね、とか分かってきて。ビートルズ方式のストーリー性があったりとか。


大谷 「昼下がり」の次は「夕まぐれ」だな、とか。じゃあ電車乗せちゃおうぜ、とか、あるんですよ(笑)。ポップスはね。


藤田 でも大谷さんのサックスソロ入った時はちょっと感動だった。


——マームでアルバムつくれそうですね。


大谷 こないだ飴屋さん家のくるみさんと録った野毛山公演のとかもヤバいですよ(笑)。


——CD制作もそうですけど、技術があるのは大事ですね。今さらですが。


大谷 まあなんでもやるっていうか。


藤田 大谷さんがほんとにパンパンゆってくれるから、普段の、ぼくしか統制とらない稽古場と違って臨機応変にやり合う感じですね。


大谷 スピーカーどこに置く?とか。音はバラに出せるぜ、とかね。でも俺はほんとにこのやり方は大好きというか自分はとてもいいんだが、演劇を観る人たちはどうなんだろう? 大体俺が出てると、みんなヒヤヒヤするらしいんだよね(笑)。


藤田 だから大谷さんが無機物であるってことは大事だと思ってて、人でありながら、ここでのポジションは青柳や波佐谷とは違う。


大谷 その2人の関係というか、戯曲の中には絡まない。現在形でいる状況を俺はキープしてガンガン音を出すという。


藤田 変な別次元ですよね。


大谷 即興演奏の現在形でずっといることには俺は違和感はないんだが、戯曲の言葉があって時間が膨らむじゃない? 未来があって過去があって。そこで録音物とも付き合う、っていうのは俺の中でも新しい自分の状態で、楽しみだね。演奏にも影響あると思う。


——藤田さんは『ジョジョの奇妙な冒険』とか好きだけど、あれに出てくる「スタンド」みたいな感覚あるよね?


藤田 そうそう、この人今、時間止めた!みたいな(笑)。ほんとにそういうタイミングあるから。


大谷 ザ・ワールド! 時は動き出す(笑)。


藤田 で、大谷よしおでーす、音楽家でーす、ってことでスタンド召喚するとかね(笑)。


大谷 確かに時間の切り裂き感というのはスリリングだよね。それに加えて、藤田くんの創り出す言葉の時間は欲しい。それがないとマームじゃない気がするからね。結局、ちゃんと芝居であってほしいんですよ。そこは重要で。


藤田 うん、それが今日の稽古あたりで分かったというか。もっと書き込めるんだなと思った。


大谷 そこは書いたほうがいいと思うし、俳優の2人にしっかり創ってほしい。そこに俺がどんだけ圧力をかけて現在形でやらせることができるか。もっと音を聴け、ちゃんと聞け!みたいになると思う。今はまだ音をちゃんと聴けてないんだよね。聴かないでセリフに頼って始めちゃうでしょ。ちゃんと聴いて、音が何か出てるでしょ、っていう意識を入れていかないと。


藤田 そこもやっぱすごく考えちゃって。『官能教育「犬」』あたりから実名を入れてて、今回もリアルに「音楽家やってる大谷能生でーす」とかいう説明の仕方なんだけど、やっぱりどこまでが現実でどこまでが嘘かっていう、そのギリギリのところの虚構についてはこの半年間くらい考えてます。今回も何枚かかぶせてて、青柳と波佐谷さん付き合ってんのかなー、とか思えるようなドキュメンタリー性がある。そこがぐちゃぐちゃになってくるというか。だけど今回は「藤田貴大でーす」というぼく自身の登場はなくそうと思ってます。


大谷 そこがほんと芝居の魅力だと思う。ほんとに演奏になっちゃったらフィクションじゃないから。


藤田 だから演奏してるのかどうか、っていうヒヤヒヤ感はあったほうがいいと思うんですよ。ただの演奏にはならない。その浮遊感があれば……たぶんぼくに乗せられてますよ(笑)。


大谷 一瞬忘れる時あるね。あれ、なんだっけ?みたいな(笑)。


町を歩く、異世代とのコラボ


——2人ともかなり文学に淫してきた、耽溺してきたじゃないですか。大谷さんの植草甚一にしても、藤田さんの梶井基次郎にしても、いずれも「町を歩く」ことが文学的なテーマとしてありますよね。そこにフォーカスした作品もいずれ観てみたいなと思います。


藤田 それは嬉しいし、今回それができるかどうかは分からないけど、大谷さんがこういう(いい意味で)クソみたいな町に住んでるのもいいんすよ(笑)。よく案内してくれてて。野毛とか、寿町とか。


大谷 横浜橋のあたりの立ち飲み屋に行ったりとか。


藤田 2人で呑んで「これなんだよ、これが音楽なんだよ!」みたいな話とかしてる(笑)。この人との町歩きは面白いですね。確かに梶井基次郎とかね、町を歩くっていう感覚がある。


大谷 もっとフィクションとドキュメンタリーの距離が分からなくなるような感じになると面白いんだけどね。それは、まあ……晩年の仕事ということでいいんじゃないかな(笑)。


藤田 晩年の仕事(笑)。長い目でやりたいですね。ぼく27歳になったんですよ。大谷さん、何年ですか?


大谷 鼠。


藤田 ぼく、丑だから。


大谷 じゃあ13歳違いか。


——世代の離れた人とやってみての印象は?


藤田 面白いですよ。ていうかぼくは歳下ダメだから、特に男子は(笑)。


大谷 俺も同世代がダメだな。よっぽど限られるね。


——岡田利規さんとか、中野成樹さんとかいるじゃないですか。


大谷 よっぽどかぎられてるじゃん(笑)。ほんと友達がいないからさ、この人とは仲良くできるかと思うとガッと(笑)。やった!みたいな。


藤田 やー、大谷さんダメそうっすね同世代。ぼくもダメなんだなー。


大谷 一緒に組んでやってる人はすごい尊敬してる。自分が好きな人としかやってないからね。むしろ先輩だと思ってる、同級生でも。


藤田 どんどんこれから、木ノ下歌舞伎の木ノ下くんとか、彼はぼくと同い年なんだけど、そういう人が現れるのかなとは思う。それに実感として、前はクソミソに拒絶してたけど、歳下の子も歳取るしなあ、というのが分かってきた(笑)。でも演劇界にあと10年はぼくみたいな才能は現れないと思いますよ。


大谷 言うねえ(笑)。


藤田 誰が現れる、現れない、じゃなくて、そういう存在になりたいです。

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出演

青柳いづみ 波佐谷 聡

スタッフ

藤田貴大 大谷能生


照明/明石伶子
演出助手・
CD デザイン/召田実子
パンフレット原稿/藤原ちから
制作/林 香菜
主催/マームとジプシー
共催/SNAC /吾妻橋ダンスクロッシング 

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