一年間、ひびのみんなとまたこうして過ごしておもうのは、いつもちがうことだった。じぶん自身の日々というものは、そしてそれに生じてくるヒビというものは、とかんがえたみたときに、果たしてじぶんはそれらに直面したときに立ち止まるのか、という風におもえてしまったのが三年前のこと。マームとジプシーという名が持つ速度を、すこし緩めるようなイメージで「ひび」という場所をつくったのだった。あれから毎年、いろんなひびと関わって、ぼくは記録してきた。しかしこれは当たりまえのことかもしれない、おもうのはいつもちがうことだった。今年は特に、さいしょからなんだか歪なものをかんじていた。ちぐはぐで、まとまりのない。何年かここにいるひとも、今年がはじめてのひとも、目がどこか不安げ。なんとも言えない不思議さをたのしんでいたのはぼくだけなのかもしれないけれど、とにかく面白かった。ひとと共有できない面白さほど面白いものはないのではないだろうか。そして日々というのは、ヒビというのは、ほんとうのところ、だれかに連絡できたりはしないで、ずっとじぶんのなかでとどまっていたり、ひっかかっていたりするものなのではないかと発見した。演劇というものをいつもつくっていると麻痺してしまうことのひとつに、どうにかしたらかならずだれかはわかってくれるのではないか、というのがあるとおもう。それはまったくの、おもいちがいだとさいきんはおもう。ひとというのは、ひとのことが基本的にはわからない。言葉をきいても、読んでも。おそらく、わかっていない。しかし、わかりやすさをたのしみたいときがあるのもわかるし、わかった気がした瞬間はうれしいのだろうから、それはそれでいいのだけれど。でも基本的にはわからないとおもうのだ。というか、わかっていないとおもう。だって、わかったことなんてあるだろうか。ぼくはやはりないのだ。ひとのこと、どんなちかいひとのことだって、わかったことなんてない。おそらく、だれしもが個人であるということでいいのだ。ひとりひとりがいて、ひとりひとりがある。
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それでも、わかりたい、わかってみたい、というひとたちにぼくは出会えた。共感はできない、けれども共有はできるかもしれないとおもうから、こういう時間、そして場所をつくっている。
2019.11.6 藤田貴大