「カタチノチガウ」Archive③/アフタートーク(ゲスト|川上未映子さん)

2015年3月26日

「カタチノチガウ」横浜美術館レクチャーホール
2015年2月13日16:00の回アフタートーク
ゲスト|川上未映子さん(小説家・詩人)

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藤田 未映子さんとは一昨年からコラボレーションをしてるけど、去年は名久井直子さんや穂村弘さんとコラボレーションをして、人の言葉を扱う舞台が多かったんですね。それで、今回の作品は自分のオリジナルとしては1年振りの作品で、そのことを未映子さんと話したかったなと思って、今話し始めてるんですけど。未映子さんには、今日初めて観ていただいて。
川上 いや、さっきからずっと参ったな、参ったなと言っているんですけど――今も説明があったように、穂村さんや名久井さんとコラボレーションをされていたけれど、あなたはもともと自分で言葉を書いて、音楽であるとか、役者の身体であるとか、タイミングであるとか、すべてのものを一緒に作り上げていくわけですよね。それを人の言葉でやるというのは、よくも悪くもノイズというか、ストレスだったと思うんです。今回は久しぶりにオリジナルの舞台だと聞いて、どっちの方向に振れるのかと思っていたら、「拘束」しかないような世界が出来上がっていて驚いたんです。
 以前、CINRA.NETで対談させてもらったときにもお話しましたけど、私がマームとジプシーに感じているものというのは、性別であるとか、いろんな時間であるとか、そういった大きなルールみたいなものを剥奪したときに蠢く何かにリーチしたいという欲望を感じるんですね。今日の舞台でもやっぱりそれはすごく感じていて、形の違う三姉妹が出てくるんだけれども、彼女たちはどんなに形が違っていても、結局一つのフレームから逃れられないという話になっている。これは少し逆説的ではあるんだけれど、形が違えないことのしんどさみたいなものをずっと描いていたように思うんです。最初から最後まで役者をあんなに痛めつけて――痛めつけると言うと変だけど、ほとんど信じられないくらいの負荷をかけて、あの姿を観たお客さんからそのことについての感想はありましたか?
藤田 いや、すごい大変だったんです。女優さんたちの身体は、今までとは違う壊れ方をしましたね。青柳さんの喉もそうだけど、吉田聡子さんの腰も一回壊れて、動けなくなっちゃって。そういう類いの壊れ方は今までしてこなかったから。
川上 その壊れた姿を見て、あなたはどう思った?
藤田 いや、人としては普通に「これは駄目なんだ」と思うんだけど、僕は今、これまでとは違う身体についてやっていくっていうことで――。
川上 違う身体のことって何のことだろう?
藤田 今回の作品では、今までとは違う身体の使い方をして、さらにそこに発声も入れてっていう稽古をしてきたから、「やっぱりか」と思ったんです。そのことを想像はしてたかもしれなくて。僕自身、未映子さんが初めて僕の作品を観てくれたときは24とかそのぐらいだったけど、今年で30になるんです。それと同じように、たとえば青柳さんだと28歳になって、どんどん身体が変わってきていて。その変わってきた身体を見ながら文章を書きたかったし、今までとは違う身体の使い方や発声の仕方に向かって変えていく、その第一歩が今回の舞台だったんですよね。

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川上 私は舞台であれ何であれ、そこで同時に走っているものを全部見てやろうって気持ちになるんです。私の性質的には言葉のことをどうしてもよく見てしまうんだけど、あなたがこれまで作ってきた舞台を観終わったあとに残る感触としては、希望のようなものがまだあったんですよね。でも、今回の舞台は今までの中で一番しんどい終わり方だった。今日配られた当日パンフレットにはあなたの書いた文章が載っていて――この文章自体がフィクションなのかどうかはわからないけれど――「コドモをのこして、死んでしまったひとがいた。彼女は去年の、夏になる前の、春の終わりに死んでしまったのだけれど。彼女はとにかく、コドモをのこして、死んでしまった」と書いてあるでしょう? あなたは、ここに書かれている女の人に対して怒っているの?
藤田 いや、怒ってないです。そこに書いたのは本当のことで、彼女は近所に住んでいたお姉さんなんですけど、そのことはまだ飲み込めてなくて。
 今までのマームとジプシーは、過去にあった出来事や記憶ってことを繰り返し扱ってきたんですけど、それってつまり、“事実”を信じてたんだと思うんです。でも、その人が死ぬ一瞬のことを想像してみたときに、マームとジプシーが信じてきた“事実”というのがどれほど強いものであるのか、初めて疑問が沸いたんですね。その人が子どもを残して死んでいくときの途方もなさみたいなものを、すごく想像して。それを描くには、今までのマームが大切にしてきた“事実”っていうものに歯止めをかけないといけないと思ったんです。
川上 今回は女性しか出てなくて、三姉妹で、複雑な血縁があるなかで、最後には実の娘がお父さんを殺すわけですよね。何のために殺すのかというと、半分しか血の繋がっていないお姉さんのために殺す、と。そこには「生きてるってことは拘束されてるってことなんだ」という手触りがすごく全面に出ている感じがした。生きていることが自然なのか、生きていないことが自然なのか――そうしたことは皆感じながら生きていると思うし、これまでのマームの作品にもそういう疑義申し立てはあったけど、今回はそれがすごく強固に打ち出されていて、拘束の装置がいくつもの層として重なっている感覚があって、観ていて一番つらい舞台だったです。一つの紋切りでいうと、男性がいて女性がいて、女性は結局組みしだかれていく。そういう装置がいくつも出てきて、最後に家を出て解かれるのかと思いきや、子どもができて帰ってくる。その子どもというのは、日本語では「この子」っていう言い方しかされてなかったけれど、英語の字幕を見ていると「男の子」になっていた。あれは意図的に「男の子」にしたのか、それとも――。
藤田 英語に翻訳するときに、この子は女の子なのか男の子なのか、すごく話すときがあったんです。そのときに、漠然とそう思ったんですよね。

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川上 少し前に、マームとジプシーのホームページがリニューアルされたでしょう? そこであなたが過去に書いてきた当日パンフレットの文章も読めるんだけど、最初の舞台のときにこう書いているんです。「いつも思い出すのは、やはり夕飯前のあの感じで、夕暮れに染まったあの感じで、『ご飯だよ。』と言われるあの瞬間の、逆行にぼやっと浮かぶ母親が、きっとぼくのしたいことなんだと」。これがすごく印象的だったんですけど、それをずっと変奏して今ここに来ているわけでしょう? その先端が今だとすれば、がんじがらめで逃げ場のない、ものすごく拘束された場所にたどり着いている。こんなに明確に「逃げ場はないんだ」と言っているのがショックでもあるんだけど、それはあなたがこの1年、人の言葉を使ってやってきたことと関係するのかなとも思うんですよね。それとも、あなたがお母様に「ご飯だよ」と言われたときに受け取った一瞬の中に、ある種の地獄みたいなものを感じていた?
藤田 どこまで言っていいのかわからないけど、2014年って年に確信に変わった部分があって。未映子さんが言っているように、僕は母親との関係みたいなものを10年近くかけてずっと考えてきたんだけど、去年の4月に未映子さんのテキストを使った作品でツアーをしたとき、女の人のことについてすごく考えたんですね。未映子さんのテキストを毎日聴いていると、そのことについてすごく考えさせられるところがあって、「僕の中にある絶対的な女性像はやっぱり母親なんだ」ってことが確信に変わったタイミングがあった。それが何なのかってことは説明できないんだけど。
川上 たとえば、今日の舞台では青柳さんの演じる女の子が走っていましたよね。「あそこにさえ行けば」「あそこにさえ行けば」とずっと走っている。『かぐや姫』にも女の子が走るシーンが出てくるけど、女の子は何かから逃れるために、何かを獲得するために走るわけですよね。私はその姿にものすごく胸を打たれるし、女の子が走っていればいいとさえ感じる。それはやっぱり、自分が走ったという体験があって、シンパシーが駆動している部分はあるんだと思います。でも、あなたの場合は性別的に男性でしょう? 男性であるあなたが走るシーンを描くとき――物理的に走るってことじゃなくて、走らせている何かを描くときに何か格別なものがあると思うんだけど、それを描くというのは、母親を通じて共感を得ているのかしら? それとも、やっぱりおなじように走ってきた、男性としてのあなたから発生するものなのかしら?
もちろん、性別以前の「人間が走る」ということでも、あるんだとは思うのだけれど……。
藤田 すごくシンプルな言葉で言うと、やっぱり「認めて欲しかった」というのはありますね。褒められたいとかでもなく、彼女に認められたかったっていうのはある。
川上 愛されたかったじゃなくて、認められたかったんだよね?
藤田 そうですね。未映子さんが言ってくれたように、僕の劇ってすごく走るじゃないですか。走った先には希望みたいなものがあると信じてたんだけど、この創作中はたしかにどんづまったままだった。
川上 今日は本当に(希望が)なかった。言葉って重いから、意識していないところまで入り込んでくるでしょう? 前作の『小指の思い出』で言うと、小指が解放の糸口であり出口だったけど、今回は親指を切り落とすって話にまでなっていて、「一体どうなっちゃうんだろう?」という気持ちになったんです。
藤田 指ってことを考えていったときに、シンデレラにぶつかったんです。シンデレラでは長女が親指を切り落とすわけだけど、あれは言ってみれば纏足みたいなことじゃないですか。シンデレラを通じて描きたいことはもっとたくさんあるなと思ってるんだけど、「これはシンデレラかもしれない」みたいなことにぶつかったときに、暗くなっていったかも。
川上 これまでのマームとジプシーだと、生きているあいだは地獄かもしれないけれど、そこには次のものに対する禊ぎ感があったと思うんですよね。今回の舞台は、「子どもが産めるかどうかわからない」と言っていた長女もとにかく子どもを産んで、それは次のところに一つの世界を差し出したとも受け取れるんだけれども、ちょっと今までにないところに藤田君がいるんじゃないかって、今日の舞台を観ていて思いましたね。そう、これまでは、やっぱり記憶や場所といった力が濃厚で、再現や検証や語り直しといった要素がマームの大きな原動力だった。つまり、藤田くんのよく知っているものたちが、すべての始まりだった。けれど今日は、「藤田くんが初めて自分の知らないことについて着手した」という感じがしました。