mum&gypsy

Light house cocoon DVD/Blu-ray 制作プロジェクト
応援コメント

青柳いづみ
(「cocoon」出演)

クラウドファンディングを通して、こんなにたくさんの人と出会えるなんて思ってもいなかった。
この出会いが、演劇を映像というかたちに変えて、それによってさらに多くの人と出会っていく。
そして私達も劇場でまた人と出会い続ける。
こんな風にしてあなたに出会えて、とてもうれしい。

ずっとそうだけれど、最近は毎日舞台に立つ夢を見ます。
そこにはいろんな人たちがいて、音があって光があって、
みんなが客席から私を見ていて、私もみんなを見ている。
大きな拍手の音がして目が覚める。
夢は、記憶?記録? 映像のようして、夢の舞台は私の中だけに残り続ける。
演劇は、わたしの生きるすべて。
わたしは夢の中で、舞台裏の、あの青い闇の中で、あなたに出会えるのを今も待っている。

あのとき劇場の中で起きていたことが、
沖縄の海が、空が、においが、すべてが、
まだ見ぬあなたにどうか届きますように。

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赤間直幸
(「Light house」ヘアメイク)

光は届いている
それぞれの家族の日常の中
時は水のように流れ
現在 過去 未来と繰り返す
水はあらゆる生物の源
それらは、様々な形に変容しながらも、全ては何の隔たりもなく、水で繋がっているはずだった

人工物に囲まれ、自然との対話もなくなり
コロナが人同士の対話を更に希薄にしていく

隣にいる身近な人を大切に、愛情を傾ける
笑みが、一滴の雫となり、川となり、海へ
世界とつながる

怒りや悲しみでは、何も変われない
失ったマブイを拾い
未来の生命のために
大切なものを残していかなくては
限りある、その時がくるまで
・・・・
マームとジプシーの現場にヘアメイクとして入らせてもらうたび、愛を感じる。
役者、スタッフ、関わるすべての方々が微笑み、多幸感に溢れているよう。
故に、マームとジプシーの舞台には、真実があり、愛がある
観劇された方々も
舞台を観終わったあと
心が温かく満たされ
高揚しているはずです
そして
藤田さんの紡ぎだす言葉の
ひとつひとつが
愛おしく感じてくるのです

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東岳志
(フィールドレコーディングエンジニア/「Light house」サウンドスケープ・音響・「cocoon」録音)

マームとジプシーと一緒に沖縄を考えて気づく事があった。
脚本で現実の一部を抜き出すと偏った印象が現れるはずなのにシンプルなセリフと動きで、自分からその場となぜか繋がってしまうこと

ずっと続いてきている事を俳優が経験したり学んだりして、そのものになろうとしている事を見た。

まさにフィールドレコーディングを俳優達が行っているように思えた。

観察するという他人としての表現ではなく、一緒にその海に飛び込んだような表現はとても愛おしく信頼できると思った。

2作品は公演中止で見れなかった方だけでなく、多くの人にこの現実や場所を見つめるマームとジプシーの作品を見ていただきたいです。
また、支援を通してこれからさきの今を見たいです。
全面で応援しています!

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池田慎二
(TEAM IKEDA代表/「cocoon」ヘアメイク)

cocoonが終わって、ひめゆり学徒隊の事をよく考えるようになった。
どうしてこのような悲劇が起こったのか、どうして回避できなかったのか、どうしてどうしてと疑問ばかりが浮かんでくる。
戦後生まれの私にとって、cocoonとの出会いは、イメージしか持たない悲惨な戦争を具現化するものでした。 そして、この作品cocoonに携わる事で戦争に興味、疑問を持つきっかけとなり、ひめゆり学徒隊に何が起こったのか伝えていかなくてはいけない作品だと感じました。
また、cocoonに出演した俳優の皆さんの仕上がりが素晴らしく、以前より疑問に思っていた仕上げ方には、マームとジプシー藤田さんの演劇への思いに答えがあるように思います。
私は、これほど長く、深く一つの作品に携わった事はなく、公演ごとに仕上がりが変化していく生き物なのだなあと思いました。
そして、私にとってcocoonは、心に残る大切な作品となりました。
マームとジプシーがんばれー!

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一田真澄
(北九州公演スタッフ)

『cocoon』を初めて観たのは、2015年8月の山口公演でした。マームとジプシーの演劇には、いつも想像のその遥か先を行くような体験がありますが、『cocoon』は、戦争という、今と地続きにあるその時間を生きていた少女たちの痛みが、時を超え、私自身の物語の一部として刻みつけられたような、鮮烈で痛烈な体験でした。2020年、念願の北九州公演を待ちわびながらも、新型コロナウイルスの影響により中止に。そして2022年夏、北九州の地で再び出会った『cocoon』は、更に大きなエネルギーのうねりで、満員のお客様を包み込みました。

マームとジプシーと出会い約10年が経ちます。劇場という空間に生み出される時間の中で、いつも此処ではない何処かへと連れ去り、未知の体験をくれる、旅、のような場所。その根底にはいつも、演劇というものへの深い愛情と、希望を感じています。マームとジプシーの新たな挑戦が、新たな出会いの可能性をひらき、そしてそこからまた、まだ見ぬ旅への一歩、がはじまりますように。

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井出亮
(京都芸術劇場/京都芸術大学 舞台芸術研究センター プロデューサー)

『A-S』(2016年7月)という作品を初めてマームとジプシーの皆さんと一緒に創った際に、藤田さんの眼差しと創作の手法が意外なほど“演劇的”だったことに驚きました。それまでいくつかの作品を観客として観ていて、ジャンルの垣根を超えたアーティストとの作業を見ていて、何となくいわゆる「演劇」との距離がある印象(というより先入観)を勝手に抱いていたから、「どっぷりと演劇の人やん」とホッとして、だからこそ演劇そのものを拡張するような作品を創ることができるんだ、『cocoon』を観たときに一緒に仕事がしたいと思ったのはだからだったのかと妙に納得したことを覚えています。

ここでいう“演劇的”ってどういうことかを説明するのはむずかしいのですが、演劇作品を創っていくそのプロセスには当たり前に“演劇的”な要素がたくさん詰まっています。集まった出演者、スタッフとのコミュニケーションからはじまり、実は作品そのものと同じくらい面白いことが稽古場や現場では起こっていて、そこに一般の方や本学学生が関わることで演劇の面白さや価値がもっと伝わると考え、マームとジプシーと共に一般参加型の企画を続けています。感染症の影響を受けオンラインでのワークショップも取り入れながら実施した『待ち合わせていた風景を記録する』(2021年3月)、『川を渡る』(2022年3月)では「劇場に人が集うという営み」そのものをテーマに幅広い年齢層の参加者と作品づくりを行いました。出演者・スタッフ、そして観客が居てようやく作品として成立するのが演劇で、集うのを避ける、簡単には集えないという状況でも、藤田さんとマームとジプシーの皆さんが真摯に取り組んでくださり、今しか創れない多分に“演劇的”な作品となりました。この京都での丁寧な作業を目にしたうえで、2020年に延期となった『cocoon』の上演に向けた長期かつ困難な状況での根気のいる作業の一端を知ると、‟演劇的”な濃密さに満ちたプロセスをうらやましく思いつつ、身震いもしました。確かに、彼らならそこまでやるだろうと。果たして個人的にも念願だった『cocoon』京都公演(2022年7月)はこれまで観たマームとジプシーの中で最もと言っていい厚みのある作品になっていました。

この約3年の間に「劇場に人が集うという営み」の脆弱さを痛感しましたが、逆にその価値の大きさを考えることができました。この価値を今まで以上に拡げていくことをマームとジプシーとともに続けてきたい。もっとたくさんの方にこの作業を知ってもらいたい。

みなさん、ぜひ応援をお願いいたします。

藤田さん、みなさん、京都でもまた集いましょう。

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岡本尚文
(写真家/「Light house」宣伝・記録写真・「cocoon」記録写真)

2021年に上演された「Lighthouse」と今年巡演された「cocoon」は、ともに沖縄を題材にした演劇でした。
僕とマームとジプシーとの出会いは2021年の半ば、「Lighthouse」を構想中の藤田さんから声がかかり、メインビジュアルや公演写真などを担当しました。
少し風が吹いていて、太陽の光りが波間にキラキラと輝いている写真の海は、今も新たな米軍基地建設のために埋め立てが進んでいる、大浦湾・辺野古の海です。

僕も藤田さんも沖縄で生まれ育ったわけではない、いわゆる内地の人間です。
僕はと言えば、40数年前の或る日、不意に沖縄と出会い、それから、途切れたり休んだりしながらも、沖縄に向き合ってきました。

「Light house」と「cocoon」、そこにあるのは、大きな物語ではなくて、ひとりひとりの人間が沖縄の地で生き、暮らした記憶をたどる小さな物語です。小さな物語が集まって、このふたつの作品は出来ています。

その公演がDVDになると聞きました。
演劇はその場に集うことでしか成り立たない。
2021年の「Light house」と2022年の「cocoon」はもう私たちの前から消えて無くなってしまいました。
消えて無くなってしまいましたが、映像が残されたようです。

映像になった「Light house」と「cocoon」からは、きっと新しい沖縄の物語と新たな出会いが生まれてくることでしょう。

出会ってしまったものたちは、そうやってなんども沖縄と向き合い、物語を紡いでいくのです ね。

新たな物語(DVD)が出来上がるのを楽しみにしています。

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川上未映子
(小説家・詩人)

マームとジプシーを初めて観たのは、2010年だった。その頃、とつぜん親友がいなくなってしまい、身も心も参っていた時期だったので、ほとんど外出がかなわかったのだけど、信頼する編集者の山本充さんが「状況はわかる。でもこれだけは、ぜったい観てほしい」と声をかけてくれて、わたしは「ハロースクールバイバイ」を観た。途中から、汗とも涙ともつかない流れがわたしが過ぎ去った後「なんちゅうもんを作るんや」と動揺しながら、その日が初対面だった藤田くんとマームとジプシーの存在そのものが、わたしが生きている限り巡るであろう真剣な「季節」そのものになったのだった。

マームとジプシーの初期から中期にかけての、わたしの勝手な考えや思いをもとに、藤田くんとした対話はまだネット上で読めるので、ぜひこちらも読んでほしい。あの日の話は、ずっと印象に残ってるんです。

藤田くんも、青柳さんも、マームのみんなもわたしと年齢は10くらい違うのに、なぜかこの15年くらい一緒に育ってきたという感覚もある。演劇はもうマームとジプシーしか観ていないから、その意味で張り切った感想だってうまくいえない。何より、とてもすごくて、とても大切だとしか言えないし、もうそれだけでいいんだという気持ちがある。マームとジプシーというわたしにとっての「季節」は、時間だし季節だからおそらく巡るんだろうけれど、でもどの季節だってどの瞬間だって、今このときに起こっているたった一度のものであるということを、みんなそれを生きているんだということを、だから、恐れないでいいんだということを──リフレインのなかから、その「本当さ」に、いつも気づかせてくれる。今のわたしにとって、これ以上に大切な認識はありません。

マームとジプシーが、どこかで舞台をつくっている。藤田くんがどこかでなにかを考えてる。青柳さんが言葉を発して、たくさんの役者が生きていて、時間のなかに、とくべつな時間を作り出そうとしている。それはわたしにとって、生きていくための、かけがえのない勇気です。

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川名潤
(装丁家)

公演タイトルやスケジュールが決まり、それほど作業が進んでいない頃合いに私は呼ばれ、舞台のためのビジュアルを作る。これは、なにもないところの地面を耕す作業に似ているなと、毎回思う。
みんなの真似をして、鍬を振るってみる。みんなが種まきをするのを見て、自分もいくつかの種を蒔いてみる。手にしたこの種が何の種かというのは、それほどよくわかっていない。どういう芽が出るのか、私は知らない。蒔いてもいいのかどうかも実は自信がないので、劇団のみんなに種に向かって息を吹きかけてもらう。これでなんとなく、これは蒔いてもいい種なのだという言い訳ができる。最後に自分も息を吹きかけ、地面に埋める。
公演のためのポスターを作るというのは、そういう作業に似ている。
その後、私はとくになにもすることがない。劇団のみんながどういう耕し方をして、どういう光や水や肥料を与えているのかを知らない。
数ヵ月待つと、予想もしてないかった畑が目の前に現れる。みたことのない植物が生えている。なんなんだこれはと圧倒されていると、その畑に体ごと放り込まれる。知らない質感の、知らない匂いの、知らない温度の、知らない葉、知らない実が肌に触れる。目が回り、動悸がする。しばらくの後、その畑は忽然と消える。
自分の関わったマームとジプシーの公演を見たあとは、「おいおいちょっと待ってくれよ」と毎回思う。もう一度あの葉や実を手に取って確かめたい。自分が蒔いた種はなんだったのか、匂いや味を確かめたい。焼いたり煮たりもしてみたい。なんならヘラで潰して顕微鏡で見たり、ヨウ素液を垂らしたりしてみたい。
その願いが叶いそうっていうんだから、こんなに嬉しいことはないです。

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菊池明明
(「cocoon」出演)

丁度一年前の今頃、『cocoon』のために走りはじめた。産後四ヶ月程経った頃だった。『cocoon』に間に合うように生まれてきてくれた赤ちゃん、間に合わなかったら妊活は止めていた。『cocoon』を基準に近年の私の人生はあったように思う。延期になってからの二年間、妊娠してからは特に、最後まで全員で無事に走り切れることを、毎日のように想像していた。赤ちゃんを産んだあとの自分の身体がどうなってしまうのか怖かったのだと思う。でも『cocoon』の前に新しい命が生まれてくることはきっと意味があるはずだとも思った。

このような時期を過ごしていたから、終わったらさぞ何もなくなってしまうのだろうなと思っていたけれど、今、割とさっぱりしている。なんでだろう。でもみんな元気かなぁと、ふと思う。初演再演のみんなのこともそう思う。学生時代を思い出す感覚に似ているんだと思う。青春を40歳近くになっても走ることができたのだ。約十年に渡るこの作品にこのチームで参加できたことを誇りに思うし、感謝しかない。

この場を借りて本当にありがとう。『ここまで来れたことは、これはひとつの成果だから』と、北海道で藤田さんが言っていた言葉がとても心に残っている。2013年からマームと共に走った『cocoon』の旅路を思い出したから。これからもマームとジプシーの旅を楽しみにしています。

『cocoon』を届けられなかった何千人ものお客さんたちに観ていただけたらとても嬉しいです。どうかご支援のほど、宜しくお願いいたします!

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今日マチ子
(漫画家/「cocoon」原作)

戦争をテーマにすることは、葛藤の連続だ。それでも表現しようと試みるのは、「彼女たち」を知ってしまったからだ。マームとジプシーによるcocoonは、舞台化するたびに、よりリアルな「彼女たち」を立ち上がらせ、進化していった。その様子にわたしも、ふたたび考え挑戦する勇気をもらっている。この舞台を観るとき、いつも必死でこの瞬間を忘れないようにと目を見開いていた。もう一度、何度でも再生できるならば、観る側もまた何度でも彼女たちについて考え、更新していくことができるだろう。

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金城小百合
(原作「cocoon」編集担当)

心から嬉しいメディアミックスを体験できる編集者はどれくらいいるだろう。
「原作の知名度があがる」「売れる」いろんな理由で喜ぶことはできるけど、生きる意味までくれるメディアミックスは少ないと実感している。
幸運なことに、「マームとジプシー」による舞台『cocoon』は私にとってそういう作品だ。

今日マチ子さんが漫画『cocoon』を描いてくれた時からそれは私にとってとても大事な作品で、自分のルーツである“沖縄”とやっと繋がりが持てた気がした。
でもそれでも、両親の生まれ育ちが沖縄なだけで、本州育ちの自分が沖縄ヅラすることに引け目と怖さがあった。

2013年初演の夏、母親が東京まで観劇に来た。その日は台風だった。
雷が鳴る中私はものすごい空気の圧迫を感じて、「神様に罰せられている」と思った。
会社には「物販があって…」と言い訳しながら校了を抜け出し、ほぼ連日夢中で観劇して「すごいものを目の当たりにしている」と感じてはいたものの、
沖縄生まれの母の観劇を考えると、“戦争”と“沖縄”を作品として発表するプレッシャーを今更ながら感じていた。
たかが原作の担当編集の自分がこんなにも負担を感じているのだから、作品を生み出した今日さんやマームの心労は計り知れない。
それくらい、私たちはカウンターな存在だった。
その頃は今日さんもマームのみんなも私も20代で、10年後の今とは違い、戦争や政治に言及する若者も極端に少なかった。
戦争を経験していない、沖縄で生まれ育ったわけでもない人間が戦争を語ること。
マームはその不安や恐怖を、今日さんと分かち合ってくれた。
今日さんとマームは同志とも戦友とも言えるだろう。作品を通じて本気で世界を変えようとしている。そのような出会いがあるから生きる意味があるとも思える。
マームが『cocoon』を上演していくなかで、私もその負担から前進できたような気がしている。

初演、再演、再再演と、製作期間を合わせると10年以上の時のなかで、マームとは何度も一緒に沖縄に行った。
繰り返し戦跡を訪れ、新しい資料を探し、“少女たちが生きたこと”に一歩でも近づこうと試み続けるマームの姿勢には感嘆と感謝が止まらない。
そのものすごい責任感と使命感に、主宰である藤田君への作家としての信頼は年々増すばかりだ。
2022年にマームと沖縄に行った際、藤田君が言った。
「“戦争や沖縄と無関係な自分がcocoonをやって…”とはもう言えない。だってこの10年めっちゃ関わってる。もう他人事とは言えないところまでとっくにきてる」
創作者としてなんて力強いんだろう。真正面から作品に取り組む姿は、世界の希望をみるように眩しかった。
そういう作家を身近で見続けられることは編集者としては喜びでしかないし、この仕事をやっていて良かったと思える瞬間だ。生きる意味だ。
そして再再演はまさにそのような力強い『cocoon』だった。

2023年を迎えようとしている。
世界は前進してるようで、本当に全く良くならない。なんで?? でも諦めたくない。
その楔となる『cocoon』を円盤で何度でも刮目できることは、それもまた生きる意味だ。

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小泉まき
(「cocoon」出演)

cocoon のオーディションを知り、
本屋さんに走って漫画を手に取った。
どんな舞台になるんだろう。 想像しながら。ドキドキしながら何度も読み返した。
あれが10 年前。

この夏、3 度目の cocoon に参加させてもらった。
2年間の準備期間。
みんなのはじめての海のこと、完璧な 1 日、いろんな話を聞いた。 沖縄に行き、荒崎海岸、喜屋武岬をみんなで歩いた。
だれかの誕生日をお祝いした。毎日走った。
そんな一つ一つの時間があって藤田くんが言葉を紡いでいく。
テキストを打つパソコンの音だけが聞こえる、
その瞬間もずっと全員で立ち合う。
あの時間が私はたまらなく好きだった。

そうして本当に『今』という時間にしか生まれない作品が、
初日があけてもずっとずっと更新されていった。

ツアーが終わったらいつのまにか冬になっていて、
稽古でできた足のあざも海でできた日焼けのあとも消えていて、今は少し寂しいです。

『大切な人に見てもらいたい』
私にとってcocoonは、今もこれからも、
きっとばあちゃんになってもそう思える作品。

人生の中での本当に大きな出会いであり、
2013 年からずっと一緒に走れたことを、
本当に感謝しています。

まだこれからcocoon に出会う人たちによって、
今後この作品はどんな旅をしていくんだろう。
とても楽しみです。
どうかどうか沢山の人に届きますように。 微力ながら応援させていただきます!!!

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斉藤いずみ
(trippen バイヤー)

私が演劇を観る楽しみを知ったのはマームとジプシーに出会った2016年。
trippenの靴を衣装に使用してもらった「ロミオとジュリエット」を観劇したのがきっかけでした。
よく、衝撃で電気が走ったような、とか、ビビビ、とか表現されてるけどほんとにそんな感じ。うまく言えないけれど,,,この世界観"好きっ"って、身体が震えたのを覚えています。

そしてこの人達が作った舞台だから観たいのだと思うようになった2017年。
「sheep sleep sharp」から「BEACH CYCLE DELAY」までtrippenとのコラボレーションを重ねるたびそう思います。
マームとジプシーが持っている静かなようで中は燃え上がっているその空気感が凄い。
その中にいるのが心地よかったりもします。

次の作品が楽しみでたまりません。

今回クラウドファンディングの話を聞いて、
「Light house」と「Cocoon」が手元に置いておけるなんて、なんて素敵な事でしょうと思いました。観る事が叶わなかった人にも届ける事ができます。
そして何よりこのプロジェクトは今後の活動にプラスになる事なのだと思います。
全力で応援します。
(trippenスタッフみんなも全力で応援してます!)

私はこれからも靴を履いて舞台を観に行きたい。 trippenを履いてマームとジプシーを観に行きます!

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最果タヒ
(詩人)

cocoonの話をします。
 戦争が始まる、と舞台の上で一人が言った。cocoonの内容を知っている私は、最初から戦争の話だと知っていたし、その言葉で「まだ始まっていなかったんだ」とふと思った。まだ、と思った瞬間に、戦争が過去の出来事ではなく、自分がこれからたどる「今」そのものになったのを感じた。このときの感覚、舞台という場所で味わえて本当によかったと思う。
 登場人物のほとんどが目の前で死んでしまった。それでも生きている人がいて、死んだ人たちのことが生き残った誰かの記憶に残り、そうやって、終わることなく続いていく。忘れられていくこともあるが、失われていくものもあるが、それでも何もかもが終わって完全な過去になることはないのではないか。あの場所であの時、私はもう一度「今」になる戦争を見た。それだけは確かだ。死んでいく人たちの「死」によって、戦争を描くのではなく、「生」によって描かれていた。その「生」には、見ている私の「生」も混ざっていると思う。だから、幕が閉じても家に帰っても「続いている」こととして、見たもの聞いたものが私の中で漂っている。
 公演は終わりましたが、この作品に触れられる人が円盤化によって一人でも増えたらいいなと思います。

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鮫島拓・鮫島睦子
(一級建築士、ON THE SAME HOTELオーナー)

繰り返し聞こえてくるひかり

『演劇って、その劇場や役者や観客があって、その時その場でしか生まれないものなんです。』的なことを藤田さんが言っていた気がします。
初めてマームとジプシーの演劇を見たとき(演劇自体初めて見たのですが)ずっとその言葉が耳の奥で響いていて、舞台の前に座り、青柳さんが出てきた瞬間に空気が変わり、一気にその世界感に吸い込まれた時、本当にその通りだと思いました。
だけど同時に、たとえ臨場感や緊張感を失ったとしても、もっと多くの人に見てもらうべき素晴らしい作品なのにもったいないなと思いました。そのあと、cocoonを見た時も、全く同じことを考えていました。

Lighthouseとcocoonでは、全く違う空間がつくられていました。
Lighthouseが日常の無意識の世界に迫るものとすれば、cocoonは現実に過去に存在した世界に迷い込んだ様な混乱の世界に誘われるようでした。
その土地や人に耳を傾ける行為は地道、まさにフィールドワーク。そこから作り込まれる世界が洗練されているがゆえに、描かれる日常の何気なさは鋭さをもちます。
作家はこの一瞬を生み出すために本を作り、演者はその一瞬を表現するために息をし、観客はその一瞬を心にしっかりと繋ぎ止めるように見る。

我々は、建築士として都市や建物の空間を設計し、ホテル運営(といっても2室だけですが)を通じて沖縄を訪れる人たちと出会います。
空間から何か心に残るものを感じてもらうということを大切に活動しています。
演劇を”見ること”はとても瞬間的な出来事で、これまでにない経験でしたが、演劇を”つくること”とはどこか我々の作り方似ている様に感じていて、俯瞰的で、連続的な断片の繋ぎ合わせで、たくさんの人が関わって作り、様々な思いを重ねたり隠したりして、そして多くの誰かに届けようとして作られるもの。

マームとジプシー作品から感じるのは、目の前の人に向けて語られているような、にもかかわらず普遍的であるような、不思議な感覚。
繰り返し聞こえてくるセリフは、同じようで一つとして同じではない。それはとても共感できると共に、我々にたくさんの新しい視点を与えてくれるものでした。

作品が劇場を超えていく時代になってきたのか。
藤田さんの突出した才能と、それを支え実現していくマームとジプシーの総合力はなによりも信頼できると思います。
そして、沖縄を舞台に2つの作品を作ってくれたことをとても嬉しく思います。
このひかりが、多くの人に届きます様に。

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塩見直子
(穂の国とよはし芸術劇場PLAT)

穂の国とよはし芸術劇場PLATで初めてマームとジプシーの作品を上演したのが、2015年の『cocoon』でした。それから7年の間、豊橋ではマームとジプシーの作品を多数上演させていただいています。劇場に働く私自身、藤田さんはじめ、マームとジプシーの皆さんが豊橋にお越しいただくたびに、「おかえりなさい」という気持ちでお迎えしているわけですが、それは豊橋のお客様も同じような感覚を持っておられるのではないでしょうか。
今回、作品を映像化するという新たなチャレンジ。DVDになることで、きっと新しい観客との出会いが生まれるはずです。マームとジプシーの新たな展開に、期待しています!

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高橋愛
(suzuki takayuki/「cocoon」衣装)

延期が決まり、長い準備の期間中に戦争がはじまった。
戦争という言葉がじわじわと確実にリアルな感覚を帯びる中、
舞台上の彼ら彼女たちと向き合うのがつらかった

物語が進んでいくほどに壮絶で、
でも楽屋に戻ると、
まるでそんなことなんてなかったかのような軽やかな笑顔に何度救われたことか

それが本当にその時代の彼女たち、そのままのようでした。

今を生きる私達、当時生きていた彼ら彼女たちは何にも変わらない

瑞々しいキラキラした時間とすぐそばの理不尽な世界、なんでなの?という声が聞こえてくる

少し昔、確実に存在した感情で、
今もどこかに存在している気持ちだということが
とてつもなく辛いけれど、日々の暮らしと並行して、いつも作品が側にいて、セリフやみんなの歌が聞こえてきます。

とても大事なことを教えてくれる作品です。

たくさんの方がこの作品に触れる機会となる映像化、とても嬉しく思います。
マームとジプシーがんばれ!!!

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高橋源一郎
(作家)

何度でも「cocoon」を

「cocoon」を最初に観たとき、ぼくを襲ったのは名状し難い感情だった。確かに「感動」はしていたのだと思う。でも、それは単純に「感動」と呼ぶことができないものだった。遥か数十年も前に、とっくに終わってしまった「戦争」。ドキュメンタリーや映画や本でなら知っている「戦争」。親や親戚がしゃべっていたけれど、ぼくには関係がないと思っていた「戦争」。しかも、その場所は、「内地」から遠い沖縄で、登場するのは、やはり自分とは縁がなさそうな少女たち。その、遠くにあったはずの「戦争」が、すぐ目の前で再現されていた。いや、「再現」ではなく、ほんとうにぼくの前で初めて起こった。気がついたら、ぼくは、あのときのあの場所に立たされていた。否応なくだ。彼女たちがそうであったように。そのような劇を観るのは初めてだった。思い出した。ぼくは「感動」したのではなく、傷ついたのだ。そして、「cocoon」を観るたびに、ぼくはまた新しく傷つき、出血する。それでも、何度でも、ぼくは「cocoon」を観たくなる。何度でも、繰り返し。どうか、「cocoon」が、もっとずっと広い場所まで届けられますように。

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田鹿充
(△巛/「cocoon」音響)

作品の中で描かれる少女たちの〝あの時の心情〟〝あの時の心理〟そしてそれらが〝どんな記憶として刻まれるのか〟を考えて音場を組み立てました。

演劇は生で体感するものですが、映像作品化することによって、新たに演劇に興味を持つ人への足がかりになって欲しいと思います。

cocoonは、観客・役者・スタッフ、関わるすべての人がなにかを背負う作品だと考えます。それがより多くの人に伝わりますように。

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豊田エリー
(「Light house」出演)

「Light house」は沖縄という土地の記憶と、
いま現在そこで暮らす人々の言葉や営み、
創作も寝食も共にして過ごした私たちの日々、
その全てが息づく、まるでひとつの生命体のような作品だと思います。

公演期間中に国際情勢は目まぐるしく変化し、
劇中で語られるかつての戦争は決して過去のものではなく、
まさに「今」起きている事象と重なって、
台詞の意味も響きも、それを発する私自身の心の中も大きく揺らいだのを憶えています。
演劇という、ただひたすら生身でリアルタイムな表現のおそろしさと、
でもここから小さな波紋を広げてゆけるかもしれない微かな光も感じました。

マームとジプシーの作品には、だれかひとりの心にそっと寄り添うような力があると思っています。
クラウドファンディングを通して、「Light house」と「cocoon」が、
必要とする人の元にきっと届きますように。
そしてこれからも素晴らしい作品たちが生み出され続けますように、
応援しています!

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鳥井由美子
(わが街の小劇場(那覇)劇場主/「Light house」出演・制作、「cocoon」制作)

2022年の『cocoon』のなかで、『Light house』でも登場した言葉がいくつか台詞として在るのを観て、「『Light house』をやって良かった。」と感じました。『cocoon』に繋ぐことで『Light house』がひとまず着地したかのような不思議な気持ちになりました。
戦争の、戦争のみならず体験や話は、どれもが誰かの持ちもので、それらは別の誰かが自分のものに出来ることでは無いと思います。だったら、その記憶を持ってることやその事実に、共に寄り添おうとする術をささやかに磨き続けることは出来るのではないでしょうか。沖縄戦も、沖縄という土地も知りたくて、その立ち位置や姿勢をマームとジプシーはやめずに探り続けているように見えます。それが何故だかは私にはわからないけど、『Light house』もその行動のひとつだと思って、私は一緒に作品に取り組みました。
記録され再生することができる『cocoon』は様々あるような気がして、面白いなあと思っています。このDVD がそうであるし、書籍『cocoon on stage』も、あの日あの年に会場で配られたお手製の当日パンフレットもそうであるかもしれません。
記録された『cocoon』が、いつどこで誰のために、どういう状況で再生されるのでしょうか。いつまでも「再生したい(思い出したい)」と思ってもらえる作品であったらなと思います。

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長江青
(ミナ ペルホネン PRディレクター/絵本作家)

演劇とは何か。それはアートやダンスが何かと同じくらい、私の人生にとって大事なテーマである。どこから現実で、どこからフィクションなのか。主観とは何か。
演劇もアートも、鑑賞者としてどう関わってもどう解釈しても否定されない自由なフィールドであり、独自の解釈で作品に向き合ううちに世界の真理や作者の狙いに触れられるならこんなに充実したことはないという宝探しのようなものである。
マームとジプシーのcocoonを見た直後は、足元がフラフラして上手く歩けなかった。俳優たちのエネルギーにも圧倒された。

演劇には、演劇にしかできないことがある。人類が滅亡しなければ演劇がなくなることはないと思っているが、劇団の存続には、時に、愛と言葉とお金が必要なのだと今回の呼びかけを知って感じた。

藤田さん、マームとジプシーのみなさん、これからのご活躍も楽しみにしています。このクラウドファウンディングの呼びかけが、多くの方に知ってもらえて、今、マームとジプシーが必要とするだけのお金が集まりますように願っています。

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名久井直子
(ブックデザイナー)

マームとジプシーの作品を初めて観てからだいぶ経ち
2014年には「マームと誰かさん」の題材になるという稀有な体験をさせてもらいました。
初めて仕事をした「カタチノチガウ」からも、もう7年。
点線のように藤田さんや、マームのみんなと仕事をしながら、
わりと近くで見つめてきました。

関わった舞台は、何度も観ることがあり、
ふしぎと現れる毎回の違い、回数を重ねてゆくことの尊さを感じてきました。
それを今、パッケージにとどめるということは。

薄く丸くなって、場所も時間も超えて届くようになることが、とてもうれしいけれど、
その時間だけの舞台も、まだまだ観ていきたいと思うので、
いまは、記憶を埋めるように、映像を楽しみたいと思います。

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根本きこ
(波羅蜜店主/料理人)

応援したくなるんです。
なぜか、と考えてみました。
例えば、演者のひたむきさとか、それを際立たせる舞台装置、音楽、衣装だとか。
なにより、静かに刻一刻と狂い始める気配の充満が、観客の琴線に触れる。その渾然一体となった劇場。
それが、DVDでもう1回見れるなんて。
ただただ愉しみでなりません。

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橘田優子
(植物染色作家・kitta主宰/「Light house」衣装)

その制作の過程は、様々な色糸で布を
織り重ねて行くように見えた。何枚も、何枚も。
そして当日、今という瞬間を呼吸しながら
膨らんだり縮んだりする舞台という生き物に変化した。

「おーい ここだよー」と
現在、過去、未来という直線的なイメージの外側から、
いつもどこにいても、思いを繋ぎさえすれば
あの呼ぶ声が今も聴こえてくる。

映像で見る、という視点がこの作品に重ねられてゆくのだと思うと、
脳内はもうS.Fの世界です。

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漢幸雄
(一般社団法人舞藝舎専務理事 あさひサンライズホール館長(北海道士別市))

 初演、再演と観ることが叶わなかった本作が、再再演で初めて北海道で上演された。沖縄戦に材を取っているとはいえ、どの戦争も日常を壊していくことに違いはない。市井の人々の命が理不尽に奪われ、その記憶は長らく消えることはない。
 戦争当事者は時間と共に減っていく。一方で戦争はいつの時代でもどこかで起きている。人間の欲望が権力と結びつくときに争いは起きる。現在も亡大国は軍事侵攻という名の戦争を引き起こしている。

 若い藤田氏が想いを逞しくして丁寧に作られた本作は、次世代につなげていくべき大切な視点のひとつだろう。演劇はライヴで体感するのが原則だが、映像でもその芯の部分は伝わるだろう。それは受け取る側の想像力で補うことができればということになる。
 この作品が映像化され、誰もが観ることができるようになるという。客席に座ることのできた人も、観劇が叶わなかった人も、改めてこの作品に向き合ってほしい。舞台の持つ力のエッセンスを受け取ることができるはずだ。

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原田郁子
(「cocoon」音楽担当)

2012年、清澄白河の会場で、
「マームと誰かさん 今日マチ子」を観た後に、
藤田くんから、原作の漫画「cocoon」を手渡されました。

「サンが海に出たところで、郁子さんの声が鳴っていてほしい」

初演から10年。
沖縄へ通い、歩き、耳をすませて、
藤田くん、クルーのみんなと、音について、作品について、考えてきました。

豊かな自然、海、風、陽射し、花々、気配、
生命力あふれる場所で、どうして、、?

じっと耳をかたむけることは、
見ること、知ること、やがて、じぶんに耳をかたむけることでもあって、

ど う 、い き る ?

この作品に関わったじかん、
舞台に立つ、彼女の、彼の姿に、
たくさんのことを教えてもらったと思います。

ラストのエンドロールで流れる合唱は、
ひめゆり学徒のみなさんが通っていた学校があった場所、
栄町市場にあるピースホールの屋上で、2022年6月18日、解散命令の日に、録音させてもらった歌です。

クロスフェードして聞こえてくる喧騒は、
その晩の、市場で働く人々、飲みに、食べにきたお客さんたちの活気。現在の営み、息遣い。
そこに私たちの願いをこめました。

人と人が集まってこそ生まれる熱量で、全身で伝えあう舞台とは、
やはり体験なのだと思います。

これまで、ずっと生の表現にこだわってきたマームとジプシーが、
初めてクラウドファンディングを試みて、去年の作品をふたつ、映像化することに決めました。
ほんとうなら、cocoon の公演のあとに Light house の公演がはじまるはずでしたが、
パンデミックの影響で、順番が逆になり、ようやく幕があけてからも、
どちらの作品も公演を中止せざるをえないということが起きました。

ありえなかったことが、起きる。
それがこの3年だったとするならば、変化の中で、自分たちもまた変わっていく時なんじゃないか。
その気持ちにエールを送りたい。

2/26まで
のこりわずがですが、
ぜひページをご覧になってみてください。

そして、これまで支援してくださった方々に、感謝します。
みなさんの力が追い風となって、マームとジプシーが次の一歩を踏み出せますように。

「劇場を出てからが、一人一人の cocoon なのかもしれないね」
いつか藤田くんとそう話した。

「だれも、しにたくなんて、なかった」
サンの声がする。

「いっせーのーせ」
みんなの声がする。

であってもらえたら、
うれしいです。

(((((((((( cocoon ))))))))))

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平岡あみ
(那覇文化芸術劇場なはーと 企画制作)

学生のとき、東京から沖縄にきて「cocoon」(2015年)をみたのが、私にとってのマームとジプシーとの出会いでした。制作の林香菜さんと前年に沖縄で知り合い、どうしても沖縄でこの作品を上演したいのだと、奔走している姿がかっこよくて、観にいったのでした。舞台上の俳優の激しさと、観客席の緊張感にもみくちゃにされた感覚を覚えています。しばらく時があいて、開館したばかりの那覇の劇場でふたたびマームとジプシーに出会い、「Light house」の劇場制作を担当することになりました。
当初は沖縄での滞在制作を想定したプロジェクトでしたが、コロナ渦で予定通りには動けず。しかし、自由に移動ができない中での創作を、ネガティブな側面だけで捉えたくないという藤田さんは、オンラインでの取材やワークショップを重ねて、すごい勢いで創作を進めていきました。
「Light house」には、沖縄という土地にながれる、水や時間、音などが描かれています。とうぜん、沖縄と東京では聞こえてくる感想が全く違い、その差異が作品をより多層的に面白くしていると感じました。コロナ渦で見ることが叶わなかった人はもちろん、世界のあちらこちらに住む人が「Light house」と「cocoon」をみて、どんな思いが届くのか。かえってくるのか。とても楽しみにしています。

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穂村弘
(歌人)

2011年に「あ、ストレンジャー」を拝見して衝撃を受けてから、マームとジプシーのファンになりました。現実の上演時間は40分ほどだったのに、その中にまったく未知の世界が広がっていました。私の憧れの別世界をやすやすと(?)作り出す若者たちに驚きと羨望を感じました。藤田貴大さんをはじめとした一人ひとりの才能はもちろん、集団としてそれを増幅して作品化する力が素晴らしいですね。

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松野創
(公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団(彩の国さいたま芸術劇場)企画制作課)

演劇はその時にその場所に行かないと見ることができない。そのことにこだわっていたマームとジプシーがDVDを発売する。まずは初めてとなるその試みを応援したいです。
生の演劇と録画された演劇は当たり前に違います。けれど、録画でしか見ていないはずの作品でも、記憶によく残っている作品があります。優れた演劇は、録画であることを乗り越える力があるようです。
現時点でのマームとジプシーの集大成とも言える2作品が、DVDという形になり、見た人にどのように届くのか。そのことを経て、マームとジプシーの活動はどのように変化するのか。興味は尽きません。

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山本直寛
(「Light house」出演)

「Light House」のことを思い返すと、みんなで自炊して、ごはんを食べた日々のことばかり浮かんできます。得意料理を作ったり、沖縄の食べ物を初めて口にしたり。ただ楽しかったというだけではなく、そういう時間が稽古より大切なものでした。
喜屋武岬の灯台をみんなで見に行ったことも心に残っています。嵐のような大雨の中、真っ暗な道を車を走らせて行きました。静かに海を照らす光をみんなでじっと見つめていました。
そうやってみんなと過ごした時間がそのまま「Light House」という作品に乗っかっている気がします。

いろんなものが忘れられていく、ということをこの作品を通して知りました。
どんな形であれ、マームとジプシーという集まりが作ったものが、ひとの心に残り続けることを、僕は嬉しく思います。

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山本充
(編集者)

藤田くんに「今日マチ子さんの『cocoon』をやったらどうだろう?」という話をしたのは、たしか『あ、ストレンジャー』(2011年、@清澄白河SNAC)の公演中のことだったと思う。個人化、身体化、密室化の傾向を強めていたゼロ年代の小劇場のなかで、一見、その精緻な完成形のように見えながら、特徴的なリフレインによりブーストされたエモーションは、はっきりその出口を求めていたように見えた。ある空間と時間を緻密にして大胆に設計するその感性は当初より、完璧な密室を作りながら、同時に完璧な世界を夢見ているのは間違いなく、ただ、おしゃれでかわいくエモい密室の作り手にとどまらないことを世間に示すのに、わかりやすくそれが社会と切り結ぶ作品があるといいのではないか、そんなことを考えていたはずだが、単に藤田作品に頻出する女子たちが海(や水辺)をめざすシークエンスが『cocoon』の少女たちの道行きに重なっただけかもしれない。
その後、『今日マチ子さんとジプシー』や漫画『mina-mo-no-gram』などの丁寧な助走を経て、2013年に初演された『cocoon』は果たして、現在を、歴史を、その懸隔を、しきつめられた砂の上に凝縮せしめた記念碑的傑作となった。そして、2015年の再演、2022年の再々演と、そのたびに更新される現在と掘り起こされる記憶を丹念に織り込み、状況にアクチュアルに対峙してきた作品は、たとえば再演が舞台となった沖縄で行われ、また再々演に際し補助線となるような、現代の沖縄を描いた『Light house』が多くの沖縄のひとの力を借りて、那覇文化芸術劇場なはーとのこけら落としとして上演されたように、もはや単に社会を描くだけにとどまらず、社会を変えたと言っても過言ではない。

その『cocoon』と『Light house』が、マームとジプシーの初めての映像化作品となる。コロナ禍という未曾有の災害を受けてのものだが、これを奇貨として、また繭の中のさなぎのように新たなステージへはばたいていくのを確信しているし、できるだけ多くのひとに見届けてほしいと思う。いや、ただ見るのではない、共に変わるのだ。

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米代恭
(漫画家)

10代の終わりから知人に連れられて行ったのが藤田さん演出の『犬』でした。自分の固定概念を覆し、なんたか目の前ですごいことが起きているという感覚に痺れ、演劇の魅力にすっかりのめり込んでいきました。
『cocoon』は再演するたびに進化していく作品です。私は今回の再再演が特に好きでした。それを公演中止によって観る方が制限されてしまったことが残念でなりません。
今回の呼びかけによりマームとジプシーの輪がより広がることを願っています。

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リマ植田亜希子
(リマタピオカサンド店)

マームとジプシー
ある観劇後「まるで、音楽のライヴのような舞台だった!積み重ねの良さを感じずにはいられなかった!」というようなことを、挨拶もろくにせず声に出してしまったことがあった。あの日から、ずっと憧れをもって眺めていた。

「Light house」は、沖縄の、私の、あなたの、今はすべてに繋がっていることに気づかされた。
私にとっての2度目の「cocoon」は、強度を増して、ただただ辛かった。
前回の作品で見たような象徴のような存在はなく、ただただ小さな声を聞き続けた。
藤田さんはヒカ リをあてる。小さな声に、闇に、喜びに。聞き逃さない、目を背けない、心を奪われない。ただただ平等に、ヒカリを。
マームとジプシーの営みは集団のゆらぎ。ジワジワと、水のゆらぎのように。
私のライトハウスはまだ続いており、私はまだコクーンの中にいる。
「後でね」「この前ね」、、、
過去と現在と未来は、言葉を変えて、入れ替わり、それがないことに気づかされる。
水は全てを知っている。

そして、DVD化とは!
固定しない空間をそこに置くように、回を重ねるほどに発光 / 発酵していくマームとジプシーの舞台を、記録するということは、もしかして、すごい決断だったのではと思う。きっとそこには、マームとジプシーに出会ってしまった、また新しい目があるはずなのだ。これが楽しみじゃないわけがない!!
私といえば、それができたら、近所のおばさんに、おばーに見せられるではないかと!そこもまた嬉しいのです。

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窓より外には移動式遊園地2

「BEACH CYCLE DELAY」

窓より外には移動式遊園地

「路上 ON THE STREET」

「てんとてん〜」2020年 ドキュメント DAY8-DAY 14

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烏鎮公演レポート2019

穂村弘×マームとジプシー×名久井直子

IL MIO TEMPO #12〜#18

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藤田貴大 インタビュー

mum&gypsy × trippen

「レパートリーについて」

mum & gypsy 10th Anniversary Tour

2015年 ヒダリメノヒダ

2015年 カタチノチガウ

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