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窓より外には移動式遊園地2

カシワイ(漫画家・イラストレーター)×藤田貴大 対談

2021/05/06

「窓より外には移動式遊園地」
カシワイ(漫画家・イラストレーター)×藤田貴大
聞き手:橋本倫史

 

――『窓より外には移動式遊園地』のメインビジュアルを手掛けられたのは、カシワイさんでした。この作品のビジュアルをカシワイさんに依頼された経緯から、まずは伺えたらと思います。

藤田 カシワイさんとは、ずっと演劇の現場でご一緒したいなと思ってたんですけど、『ちくま』での「T/S」って連載(藤田貴大による小説。カットをカシワイさんが担当)があるから、カシワイさんを山本さんって編集者(「T/S」の担当編集者)に握られてる気がして、なかなか声をかけにくい状態で。でも、『窓より〜』については「カシワイさんとやりたい」ってことを制作とずっと話していて。なんでそう思ったかっていうと、この公演では得体の知れないものをやりたいと思っていたんですよ。そう考えたときに、カシワイさんの描く作品って、ひとつのカットに対していろんな見方ができて、モチーフの配置のしかたも結構ギョッとするときがあって。『T/S』を連載してたときも、「あ、これがこうなるんだ?」ってすごく感じてたし、それって僕が『窓より〜』で思い描いていた“配置”とも一致してたんです。だから、いわゆる演劇作品にいきなり巻き込むより、こういう企画でカシワイさんとご一緒したいなと思ったんですよね。

カシワイ 最初に依頼をいただいたときは、すごい嬉しいって気持ちが一番でした。「T/S」ではご一緒させてもらってましたけど、演劇はまた別の世界で、藤田さんの中で完結しているものだから、ちょっと触れられないなと思っていたので、そこに参加させてもらえるのは嬉しかったです。ただ、そのお話をいただいたあと、今までのチラシを見返してみると全然テイストが違ったから、「ほんとに私がやって大丈夫かな?」って気持ちにはなりました。

――最初に依頼があったとき、どんなやりとりがあったんですか?

カシワイ 藤田さんが最初におっしゃっていたのは、「倉庫みたいなところで、観客も一緒にそこに入り込んでいくような、今までと違う演劇をやりたい」ということで。それと、藤田さんがヨーロッパで移動式遊園地を観たときの話をすごく印象的にされていたんです。夢見たいな空間が立ち上がるんだけど、公演が終わると跡形もなくなってしまう――その話はすごく印象的で。

藤田 移動式遊園地を観たのはイタリアのポンテデーラって土地だったんだけど、その土地にあるレストランでピザを頼んだとき、「これを切り分けるピザカッターをください」って店員さんに言ったら、「は? ナイフあるじゃん」みたいな感じで言われて。隣の席に座ってた人たちも、こっち見ながら「なんだこいつら?」みたいな感じでニヤニヤしてて、そこで初めてすごい差別を受けた感じがして(笑)

カシワイ ナイフで食べるのが主流なんですか?

藤田 ナイフでステーキみたいに食べるのが主流なんですけど、たぶん一枚のピザを誰かとシェアするのが気持ち悪がられたんだと思うんですよね。それは映画館が入っているような商業施設の一角にあるピザ屋さんだったんですけど、その駐車場の向こう側が空き地になってて、そこに移動式遊園地が立ち上がってたんです。

「窓より外には移動式遊園地」会場風景 撮影:小西楓 宮田真理子

――その移動式遊園地に遭遇したとき、僕も一緒にいましたけど、今思い返してみると不思議ですよね。大勢で何もない街を歩いてたら、道路の向こう側に突如として移動式遊園地が見えてきて、皆一瞬「おお」って盛り上がったのに、ほとんどの人が帰ってしまって、僕と藤田さんと、制作の林さんと3人だけで移動式遊園地を歩きましたよね。この状況下で、『窓より〜』と絡めてその瞬間のことを思い返してみると、向こう側に移動式遊園地が見えたときに、そこに足を運ぶ人と引き返す人に分かれたってことが印象的だったな、と。

藤田 今の話を聞いていても思うんですけど、人の数だけ視点ってあるじゃないですか。たとえば漫画を読んだとき、「こんな視点ってあるんだ!」という驚きがあったんだけど、年を重ねていくと驚かなくなっていくんですよね。漫画家だって演劇作家だって、つまるところは人で、僕の視点と別の誰かの視点が違うのは当たり前だから、「別にハッとしたりはしないよ」って感じで生きてしまっていて。だから絵や写真に感動することって少なくなってきて、なんでもかんでも新刊を読み漁っていた時代は過ぎ去ってしまっているんだけど、カシワイさんの絵はすごいハッとさせられるんですよね。「そこを切り取るんだ?」とか、「そこを俯瞰で描くんだ?」とか、そこにしたたかな計算があるような気がして。僕も空間に何かを配置するとき、どこに何を置くか、俳優がどこに立つか、すごく考えるわけですよ。そこは演出家っていうより、デザインなんですよね。ひとつの絵を、空間として決めていく。『T/S』を連載してるとき、カシワイさんの絵にはその興奮が毎回あったし、その感覚を通じ合えるような気がしている人と一緒にやりたい企画が『窓より〜』だったんです。

『ちくま T/S 20』イラスト

――藤田さんであれば、稽古場で実際に物を配置してみるところから作品を立ち上げてますけど、カシワイさんは絵の配置をどんなふうに組み立てていくんですか?

カシワイ 『T/S』のときだと、原稿をいただいて読んだあと、一回置いておくんです。そのあと、話の中で今回描くべきモチーフを言葉で書き出して、また置いておく。そうすると、目をつぶった状態だと配置が段々見えてきて、小さい四角の画面の中で割合を決めていく感じです。黒の割合とか、どれぐらい余白が入ってるかとか、それを四角や丸でなんとなく描いてみて。その割合が決まったら、大きいサイズでちゃんと描いてみて、それをデジタルで起こしてご確認いただいてました。

藤田 最初は四角とか丸で考えていくんですね。

カシワイ なんとなく、割合を考えてます。最初から決め打ちでポンと出てきたものを描くこともあるんですけど、人の作品を絵に起こさせてもらうときは言葉で拾ったあと、できれば一晩寝かしてます。そうすると、どれを描くべきか、どう起こすといいのか、わかってくるんです。

藤田 あの連載は、僕が原稿を書き上げるのがギリギリ過ぎて、いつも申し訳ない気持ちになってましたけど、今の話を聞いてまた反省してます(笑)

カシワイ 一晩置けないときもありました(笑)

藤田 すいません(笑)。でも、たしかに、寝てる最中に考えることってありますよね。僕は夢の中に出てきたことが実際のアイディアになることも多いんだけど、ずっと途切れずに集中してるときにそういう夢を見るんですよね。だから、一回寝かせておいたときに、自然と出てくるものは信用できるっていうのはすごくわかります。

カシワイ 藤田さんは舞台をつくられてることもあって、小説を読むと、絵に起こしたいところが絶対入っていて。もしかしたら間違ってるかもしれないですけど、「ここがいいな」ってところが毎回あるんです。それと、『T/S』は時間が行ったり来たりして重なっていくような表現が多かったので、それをイラスト上でどう重ねられるかってことは考えてましたね。カットは一話につき一枚しか描けないので、どうすればそこをうまく描けるか、毎回考えてました。

藤田 それで言うと、今回の『窓より〜』はめちゃくちゃ大変でしたよね。その段階ではまだ名久井さんとの「Room #301」のテキストは書き上がってなかったけど、「冬の扉」と「治療、家の名はコスモス」と、「ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜」、それに「animals」と、いろんなテキストを扱う公演だけど、その公演のビジュアルとして描くことが許されてるのは1枚だけっていう。しかもひとりの作家が書いたテキストでもなくて。

「窓より外には移動式遊園地」モニュメント 撮影:小西楓 宮田真理子

カシワイ たしかに、共通するのは「ひきこもってる女の子」ってことだけで、皆それぞれ違いますよね。だからまず、送っていただいたテキストを全部読んで、打ち合わせで話されていたことを思い返して、この作品群の全体像はどういうものか、自分なりに考えたんです。この子はひきこもってるけど、本当は外に出ることもできるのに、あえて出ないのかもしれない。窓を開けると違う景色が広がっているけど、それはこの子の頭の中にだけ存在するものなのかもしれない。そうやって、作品それぞれの要素を、自分なりに考えてみたんです。ちょうどそのころ、『apart』って映像作品を配信されていて、その映像の中で青柳さんがベールみたいなのをかぶっていたんですよね。それを見た瞬間に、「ああ、この子はマッチ売りの少女みたいに、火を灯して、やがて終わる夢を見ているのかもしれない」ってところに落ち着いたんです。この子はいつか外に出なければいけないし、この移動式遊園地も絶対に終わることが決まっていて、その終わりのある夢を見ている。これはきっと、そういう一回限りのお祭りなんだと思って、ラフに出しました。

藤田 こういうのってほんとに不思議で、こうやって話す機会でもない限り、「あの絵は何をイメージしたんですか?」とか聞かないじゃないですか。だから、今こうやって聞けて嬉しいです。そうか、マッチ売りの少女だったんですね。『apart』のときに青柳がかぶっていたのは、スタイリストの遠藤リカさんに借りた古着の帽子で。靴とかもそうだけど、帽子も基本的には部屋の中でかぶらないものだけど、それを部屋の中で選んでかぶり直してるのは結構面白いなと思って、あの期間に扱ったんですよね。カシワイさんの絵も、外から帰ってすぐの描写でもなさそうだし、これから外に出ていく雰囲気でもない女の子が帽子をかぶっていることで、「この子はこの家で何をやっているんだろう?」感が増してたなと思います。

「apart」 撮影:召田実子

――1年前の春、最初の緊急事態宣言が出たころ、カシワイさんはどんなふうに過ごしてましたか。

カシワイ ちょうど漫画の単行本(リイド社から刊行された第二作品集『光と窓』)が出るタイミングだったんですけど、サイン会をはじめとするあらゆるイベントが中止になってしまって。ただ、舞台と違って、オンラインでやりとりするだけで済むので、人と会う機会はめちゃくちゃ減ったけど、仕事としてはそこまで変化がない感じでした。

藤田 僕も『T/S』のラストに向けて悩みに悩んでて、カシワイさんと一回会ってミーティングしたんですよね。あれ、夏ぐらいでしたっけ?

カシワイ そうですね。暑かった気がします。

藤田 そのときカシワイさん、すごい久しぶりに家から出てきたって感じでしたよね。「何ヶ月かぶりで友達に会うんです」って言ってた気がする。

カシワイ 電車にもほとんど乗ってなかったです。去年の春ごろはまだ何もわかってなくて、人に会っちゃいけないと思っていたので、朝とか夜にずっとひとりで散歩してました。

藤田 カシワイさんのTwitter、絶妙に面白くて。最近のTwitterっていいねを押しただけでタイムラインに流れてきますけど、カシワイさんのいいねのセレクトもよくて。ほんとなんてことない話だったりするんだけど、それを自粛期間中に見てて、カシワイさん面白いなと思った記憶があります。でも、あの時期、普段よりちょっと苛立ってましたよね。

カシワイ これはもう言い尽くされてることだと思うんですけど、コロナによってさまざまな諸問題が浮き上がってきて、それに対する対応も最悪のことばかりだから、クソがって思ってました。

藤田 いや、クソでしたね。それに苛立ってるのが伝わってきて、「心強いな」と思って見てました。

カシワイ そこで意見を表明するとか、「こうするべき」みたいなことを高らかに言いたいとかって欲求はないんですけど、何かを変えるために署名が必要なんだったら署名をしたいし、選挙があるんだったら投票に行くぐらいの表明のしかたはしていきたいなと思いました。

――今の社会に問題があると感じたときに、直接的な呼びかけをする人もいると思うんです。それはそれで大切なことであるのと同時に、別の道を選ぶ人もいて、作品をつくることだってそのひとつですよね。やりきれない報道を見て、「はあ」ってため息を漏らしてしまうことも、その人にとってはそれがひとつの出口だと思うんです。高らかに意見を表明するのではないにしても、カシワイさんも日々ニュースを追っていたんですね。

カシワイ めちゃくちゃ辛かったんですけど、ちゃんと見たほうがいいなと思って、見るようにしてました。ニュースを見て、また別のソースを確かめたり、今の政治状況を確認したり。ある日、ちょっとキャパオーバーになって、作品が描けなくなってしまったんで、一旦離れたんですけど、ちょっと回復したところでまた薄目を開けながら見るようになりました。

藤田 僕らって、作品があるじゃないですか。僕の中でも、「言いたいことは作品の中でやればいい」って気持ちがあって、僕なんかがたとえば政治のことを言ったところでどうなんだろうなって思っているところもあるんです。20代のころはほとんどその気持ちでいて、劇場って場所での言葉としてはある程度意思表明はしていくにしても、その意思表明は直接的なものじゃなくて、「いろんな言い方があるよね」と思って頑張ってきたところがあったんですよね。でも、あの春、誰かの目に触れるはずだった表現が、自分にはどうにもできないところで折られていった感じがあって。僕の中では、カシワイさんもそういうことをTwitterで直接的に言うってよりも、最近描いたカットを載せたり、散歩したときに思ったことをつぶやいたりするような感じだったんだけど、ある日、「不安に暗雲を塗り重ねる世の中ですね」「偽名のひっくり返ったトリのアカウントで言えることは何もないです実名でやれることをします」とつぶやいているのを見たときに、カシワイさんもそういう感じなんだ、そうだよね!って思ったんです。

――藤田さんは「僕らって作品がある」とおっしゃったように、日々のニュースで報じられることに対してはもう見るのをやめて、「私は作品をつくることに専念します」ってことも、態度としてありえると思うんですよね。でも、藤田さんも日々ニュースを見続けていて、カシワイさんも薄目を開けて見ようとする。それは別に、ニュースのことやそれを見て感じたことを作品に反映させるってことでもないと思うんですけど、そこでニュースを見続けるっていうのはどういう感覚なんでしょう?

藤田 それに対する僕の答えははっきりしてて、演劇は現在って時間を扱うしかないと思っているんですね。もちろんニュースを見たことで現在って時間をすべて捉えられるとは思ってないし、ニュースも誰かの考えが入っているものだから、ひとつを見ただけで「これが世界だ」とは思えないにせよ、それを無視して「僕はアーティストだから」って態度でいることは不可能だなと思うんです。だから僕は、ケータイに各地方紙のニュースとかも全部入れていて。上京するとき、母が唯一言っていたことも「できるだけニュースは見るように」ってことだったんですけど、見ないって選択肢はあるにしても、見ないってことはできないかなと思ってますね。ただ、朝の情報番組はどんどん意味がわからない感じになってるし、日本人のダサさが詰まってると思うから、あれを朝に観るのは辛くなってきてますけど。

カシワイ 私の場合、自分の中にはそんなに大したものがないんです。ここに今生きていて、箱庭みたいに自分の内側でごっこ遊びをしていても小さくなっていくだけだから、「どうしたらいいんだろうな」ってずっと思っていて。何をどうしたらいいのか、わからないんですけど。でも、どうしたらいいんだろうなって思いながら、いろんなものを見たり、いろんな仕事をしていくうちに変化していくことが面白くて、変わり続けたいみたいな気持ちがずっとあるんです。だから、政治的に火炎瓶を投げるみたいなことはなかったとしても、ここで生きている限り、ちゃんと見たいなと思います。

藤田 この話に答えはないと思うんだけど、どのカシワイさんの絵を見ても、どこか虚無感があるんですよね。これは余白のつくりかたもあるんだと思いますけど、その人物なり物なりがすごく広大な風景の中にぽつんと、立ち尽くすしかないって状態にある絵が多い気がして。たとえば、この絵(「T/S 6」『ちくま』2018年9月号に掲載されたカット)は、僕が中3で一番辛かった時期の話を書いた回のカットなんですけど、有珠山の噴火で町がぼろぼろになっていて。この絵を見たときに、「かわいい絵だな」って言える人もいるかもしれないんだけど、僕の中ではもう、校舎を遠くに見たときの虚無感と繋がっていて。「あそこに行ってもなにもないな」って、そう思ったときの気持ちとすごくマッチする。だから、カシワイさんの絵を見ると、どうしてこんなに絶望感に満ちた画面を作れるんだろうって、ちょっと怖くなるときもあるんです。すごい素人なことを言うと、もうちょっと人物を大きく描いてもいいじゃないですか。でも、人物以外のスペースが大きいからか、手に負えない世界に佇んでる感じがすごく伝わってくるんですよね。

『ちくま T/S 6』イラスト

――今藤田さんが話した「絶望感」とも繋がる話ではあるんですけど、ニュースを見てると、毎日どこかで悲劇的な出来事が起きていたり、「なんだよそれ」って言いたくなるような出来事が連日報じられてますよね。そこでもう、そんな現実からは目を背けて、ピースフルな世界観だけを描くこともありうると思うんです。あるいは、その反対に、「世界はこんなに絶望的だ」って露悪的に描くこともありうると思うんですよね。でも、カシワイさんの絵は、もっとフラットに世界をまなざしている感じがあって。それはさっきの話とも繋がっている気がするんですけど、そこで絶望しきることもなく、薄目を開いて見ようとするのはなぜなんでしょう。

カシワイ それはわからないです。死んでないから生きているんじゃないですか。

藤田 今の話で思ったのは、ピースフルなものってあるじゃないですか。たとえば「頑張ろう」とか、「平和」とかって言葉って、やっぱり頑張れない世界があって、平和じゃない世界があるから出てきちゃった言葉だと思うんです。そもそも平和だったら「平和」なんて言葉は存在しなかったし、そもそも皆が頑張れてたら「頑張ろう」なんて言葉はなかったはずで、そもそもなくてよかった言葉ってあるんじゃないかと思うんですよね。イラストでも、すごい笑顔を浮かべた人の姿を描く人って、何かの反動で描いている感じがするんです。でも、カシワイさんは何かに対する反動とかじゃなくて、結構ニュートラルにこの絵を描いてる感じがして。ニュートラルな感じでこの世界を突っ込んで描いていて、カシワイさんと、描いてる世界がシームレスな感じがするんです。そこがカシワイさんのすごさなんだと思う。僕とか橋本さんからすると、「なんでそんなにニュートラルでいられるんですか」って話になるんです。何かを描くときって、社会に対して思うこととか、怒りだとか、ガッツみたいなものを上げていかないといけないような気がするんですけど、なんでカシワイさんはゼロ地帯からゼロ地帯の表現でいけるんですかね?

カシワイ なんでしょう、何も思ってないんですかね? ただ、『T/S』や『窓より〜』の絵に関して言うと、全部作品から引っ張ってきて考えたことなんです。『ぬいぐるみ〜』も観たことがありましたし、「冬の扉」や「治療、家の名はコスモス」は『みえるわ』(2018年)で観たことがあったんですけど、それを全部一緒にやるって聞いたとき、「そんなに近しいものがあったっけな」と思っていたんですけど、テキストを読み返してみると、共通して流れるものがあって。なす術がないまま、部屋にいる感じ。どうしたらいいのかわからなくて、無力なまま部屋にいて、窓を見てはいるんだけど、それを開けようとはしない感じ。

藤田 そう、未映子さんのテキストも窓を意識してるんですよね。「治療、家の名はコスモス」だと、最後に窓を開けるんだけど、その直後に部屋に戻っちゃうから、結局外には出てなくて。それは今回改めて取り組んでみたときに、内側と外側にある断絶の響きが変わったなと思いました。

「窓より外には移動式遊園地/治療、家の名はコスモス」 撮影:小西楓 宮田真理子

カシワイ 『みえるわ』で観たときは、自分の内側にこもっている人の話だと思っていたんですけど、こうしてまとまって観たときに、自分だけでは解決できない問題とも向き合っていたんだな、と。

――今、世の中の状況が変わったことで、見え方が変わったところや、あるいは前々から感じていたけど輪郭がはっきりしてきたことって、それぞれあると思うんです。カシワイさんは、2020年という年を経て、どんな考えに至りましたか?

カシワイ 全部言う通りにしないで、好きにやろうって思いました。人に迷惑をかけるようなことはしないですけど、この中でどう立ち振舞っていくかは、自分の責任で自分のやりたいことを余すことなくやろう、って。前々からそう思ってはいたんですけど、より一層そう考えるようになりました。

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