mum&gypsy

「てんとてん〜」2020年 ドキュメント DAY1-DAY7

DAY 5

2020/09/21

2020.9.19

朝、自転車をこいで新聞を買いにゆく。今日はよく晴れている。ただ、昨日の夜も雨が降ったからか、小川から聴こえる水の音はけたたましい。ゴミ収集車が通り過ぎる。杖をついた老人が温泉の暖簾をくぐってゆく。この街に暮らしている人たちの姿に目が向く。縄跳びを持った女の子が、母親とおぼしき女性に手を引かれ、浮かれた様子で歩くのとすれ違った。その姿を見て、今日は休日だと気づく。

コンビニに並んだ朝刊の中から、神戸新聞を選んだ。ダイニングルームでコーヒーを飲みながら、一面から順に目を通す。ひょうご総合面には、県内でボーガンが凶器とされる事件が相次いだことを受け、ボーガンを規制する条例案が提出されたこと。地方ごとに「わがまち」欄があり、但馬地方では豊岡駅前の商業施設からスーパーマーケットが撤退する意向を示したことを受け、存続を求める要望書が提出されたこと。西播地方では、森高千里のフォトエッセーが発売され、その表紙にたつの市の商店街で撮影された写真が選ばれたこと。姫路地方では、竹やぶで赤いバナナのような実が発見され、その正体がツチアケビだったことが報じられている。神戸新聞を選ばなければ、ここに記された出来事を知ることはなかっただろう。隅から隅まで読んでみたけれど、ぼくが知りたかった出来事については記されていなかった。

昨晩触れたニュースには、ぼくが普段暮らしている街の名前が記されていた。その街のことは、こうして遠く離れていても、路地という路地までまで思い浮かべることができる。この街のことは、そこまで具体的に思い浮かべることはできないけれど、こうして何日か過ごしているうちに、少しずつ地図ができつつある。でも、しばらく経てばきっと、記憶は薄らいでしまうだろう。今日の新聞で知った出来事のことも、やがて忘れてしまう。

今日は公演初日だ。上演に向けて、朝10時から劇場で返し稽古が始まる。気になっていたシーンを返すと、藤田君がマイクを手に語り出す。

「このシーンって、去年まではギアをチェンジするように曲の音量を上げていく感じがあったんだけど、全体としてすごく綺麗な音になってきてるから、今日はこの音量でやってみてもいいのかもね。なんかさ、この半年間、耳鳴りが消えたんだよ。たぶん演劇をやり過ぎて爆音に当てられてたんだと思うんだけど、耳の感じがリニューアルされたなと思って、ひそかに喜んでるんだよね。「『てんとてん』はこういうものだ」って、悪い意味で染みついちゃってたものがあったけど、この座組はそういう論点でやってない感じが今年らしいなと思う。

いつもそうあるべきだったと思うし、こういう状況にならなくたってこの作品にはそれぐらいの力があると思ってやってきたけど、今年のバージョンは特に、こっちが意識してなくても今ってものが勝手に接続してくるけど、そういう意味で舞台と客席がケンカし始めても仕方ないんだよね。演劇っていうのは、等しく今を生きてる人が集ってるってだけだから。そこが、今のこの状況を知らない人たちが演技してる映画と違うところで、いつも言ってることだけど、今日の観客は今朝のニュースを見てやってくるわけだよ。そういう意味でも、良いプロセスでここまでリハがやってこれてるなと思ってるんだよね。

この作品に登場するキャラクターたちってさ、『今、この場でこの言葉を言わなきゃいけない』ってことばっかやってるじゃん。たとえば、“はさたにくん”がめっちゃしゃべるシーンがあるけど、“はさたにくん”からそうやって話を聴かされてる側は『何だろう?』って不思議に思うよね。『なんで今、こんなに言葉を言おうとしてるんだろう?』って。演劇で語られる台詞っていうのは、作家が乱暴に書いてるけどさ、役者さんは『このキャラクターはなんでこの瞬間にこれを言いたかったのか?』ってことをやるしかないじゃん。

でも、それは演劇だからそうやるしかないってことじゃなくて、会話ってそうだなって思うんだよね。『あの人があのタイミングであんなにしゃべってきたのは何だろう?』って、その瞬間はわからないんだけど、そうやって話をした人にとっては、その瞬間にそれを言わずにはいられなかったその人の感情があったってことじゃん。それが演劇表現でもあるんだと思う。その積み重ねを役者の皆がやってくれた結果、公演っていうレベルでも『今このタイミングでこの演劇は上演されなくちゃいけなかった』ってことになるわけだよ。この作品の言葉はぼくの言葉でもあるけど、それはつまり、今日の15時から会ったこともない人たちにこの言葉を届けなくちゃどうしようもなかった作家がいるってことなんだよ。その言葉を、皆がきちんと巻き戻って再生する作業をやってくれてると、初めて言う言葉だけど、勇気づけられるなと思う」

正午が近づくにつれて、劇場に人の気配が増えてくる。観客を出迎えるにあたり、駐車場で誘導するスタッフや、来場者を入り口で検温するスタッフ、手指の消毒を促すスタッフ、チケットの種類を確認するスタッフ、ホールまで誘導するスタッフ、ホールの入り口で再び手指の消毒をお願いするスタッフと、大勢の人たちがたずさわって、公演が成立している。

今日の朝刊には、「イベント制限、きょう緩和」という見出しがあった。「政府は19日、新型コロナウイルス対策で要請しているスポーツやイベントの入場制限を大幅緩和した」とあり、「映画や演劇などは小規模で大声を出さず、感染リスクが低いものは満席も可能となる」と書かれていた。ただし、今回参加する豊岡演劇祭では厳しいガイドラインが設けられており、客席はひと席おきにしか座れないように設定されている。観客が座れない座席には、ベートーヴェンのようなイラストが描かれていて、「私の席です」と言葉が添えられている。

14時ごろから、劇場に観客が集まりだす。観客が密にならないように、地面には目安となる足跡シートが貼られている。ロビーではサーキュレーターが回転している。入口と出口は別に設定されていて、ホールに入場する観客と一旦外に出る観客が密にならないように設計されている。最初に入場した何人かのお客さんたちが、最前列から座り始めたことに感動してしまう。

定刻から7分遅れて、入り口の扉が閉まる。30秒ほど経過したところで、俳優が舞台上に姿をあらわす。“さとこちゃん”を演じる吉田聡子さんは、しばらく客席に視線を向け、最初の台詞を語り出す。

舞台に立つ誰かと目が合う。たったそれだけのことにびっくりする。

振り返ってみると、この半年間は誰かと目が合うこともなかった。日常生活で誰かと言葉を交わすときも、ぼくはほとんど相手の目を見ずに済ませている。パソコンの画面越しに誰かと通話する機会もあったけれど、画面に大写しになる誰かの顔を凝視するのは憚られて、どこにも焦点を合わせず会話してきた。だから、舞台上に立っている俳優と、客席に座るわたしたちとが視線が合うというだけでハッとする。

それは、俳優の側でも同じであるらしかった。ゲネプロを観たときとは声の響きが違っている。返し稽古を経て完成度が増したことがあるにせよ、それだけが理由ではなく、そこに観客がいることが影響しているのだろう。声の響きがゲネプロと違っていたのは、俳優が客席に向けて語るシーンだった。それは、単に客席に視線を向けるというだけでなく、舞台上で描かれる作品世界と、現実の客席とが限りなく地続きになる、戯曲で言えば何行かのシーンだ。

終演後にバックステージに向かうと、俳優の皆はどこか不安げな表情で楽屋に立ち尽くしていた。「緊張したらしいです」と藤田君が教えてくれる。これまで藤田君は、終演後は決まってロビーに立ってきたけれど、この状況ではそんなふうに過ごすことも難しくなった。まだロビーには観客がいるけれど、藤田君はキッチンに佇んでいる。

藤田君に話しかけようか迷いながら、冷蔵庫からビールを取り出す。観劇後、藤田君に感想を伝えることは滅多にない。観客として観劇するときであれば、わざわざ楽屋まで挨拶にいくことも少ないし、こうしてツアーに同行しているときだってほとんど感想を伝えることはなかった。感想はぼくの個人的なもので、それを誰かに伝える必要がないと思っているからだ。観劇の感想に限らず、自分の中になにか言葉が浮かんでも、それを口に出さずに握り潰すことが多い。それに、今の状況では言葉を発することがひどく悪いことであるように感じられて、声を発する機会が減ってしまった。でも、どういうわけか、今日は藤田君に「観れてよかったです」と感想を伝えてしまう。

リハーサルがおこなわれているあいだ、劇場でずっと過ごしていると、ぼくは窓が恋しく感じてしまう。でも、上演中はそんなことをまったく感じなかった。目の前に広がる光景を食い入るように見つめていた。それはきっと、上演中は舞台が窓のように感じられるからだろう。

「今日の回、よかったですよね」と藤田君が言う。「たぶん皆、やってて動揺したと思うんですよね。それはすごい想像できる。観客は皆マスクしてるから、反応がわかんなくて、動揺してる部分があったんだと思う。でも、役者が上演中に気づいていってるものがあるんだなってわかるから、観れてよかったなと思うし、今しか観れないものを観てるなと思ったんです。役者の仕事としては悔しい部分もあったのかもしれないけど、観客は『こっちを無視して進行されてないな』と思うだろうなっていう。役者は再現するのが仕事だけど、ある言葉や感情を再現しようとしたときに、ちょっとした誤作動が起こると思うんですよね。これは別に、演出家として『誤作動が起きることが素晴らしい』と言いたいわけでは全然ないし、ドキュメントを見せてるわけじゃなくてあくまでフィクションを見せてるわけだから、役というルールは守らなきゃいけないんだけど、ある台詞を言ったときに余韻が残るんだと思うんですよね。ぼくは『CITY』って作品の中で余韻って言葉を使ったけど、僕らはつまるところ、余韻の中を生きてるってことに尽きる気がするんですよね。さっきも言ったように、誤作動を起こさせることが目的ではないんだけど、余韻の中でちょっとした誤作動が起こるのが演劇なんだと思う」

そんなふうに語りながら、藤田君は冷蔵庫からボウルを取り出す。上演前に仕込んであった食材を取り出し、にんにくを切り、フライパンで炒め始める。今夜はパスタを作るようだ。キッチンに広がる香ばしい匂いを肴に、ビールを飲み始める。皆がダイニングルームに降りてくるたび、「お疲れ様です」と心の中でつぶやき、誰にも気づかれないように小さくグラスを掲げる。

テキスト・撮影:橋本倫史

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