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「てんとてん〜」2020年 ドキュメント DAY1-DAY7

DAY 6

2020/09/22

2020.9.20

朝8時には、ダイニングルームに皆が降りてくる。窓は開け放たれていて、外から秋の空気が流れ込んでくる。

「夏の装いできちゃったけど、結構涼しいね」
「ね。結構肌寒いね」
「次の香川はどうなんだろう?」

皆が小さな声で言葉を交わしていると、「俺、調べるよ」と波佐谷さんがケータイを取り出し、天気予報をチェックしてくれる。「えっと、24日と25日は雨だね。だけど26日は晴れて、昼間は26℃だね」

今日の天気は、調べるまでもなく、雲ひとつない青空が広がっている。8時50分には皆で劇場に集まり、ラジオ体操をする。音響の竹内和弥さんは彩の国さいたま芸術劇場のスタッフで、彩の国の現場では朝に皆でラジオ体操をすることが多いのだという。去年の『めにみえない みみにしたい』という作品でも竹内さんは音響としてかかわっており、ツアー先では毎日ラジオ体操をやっていたけれど、今回の旅では今日が始めてのラジオ体操だ。

10時になると、劇場に観客が集まり始める。城崎公演は豊岡演劇祭に参加しているため、他の作品とハシゴできるようにと、今日と明日の開演時刻は11時半に設定されている。これまでいろんな土地で上演されてきた『てんとてん』だけれども、午前中に開演するのは今日が初めてのことだ。

「昨日より演目としてよくなってた気がするけど、なんか、めっちゃ朝だなって感じがしたね」。終演後、バックヤードで藤田君はそう切り出す。

「朝っぽかったですか」と成田さんが尋ねる。

「いや、これは俺だからわかるレベルの話だけど。まあでも、テンション上げてかないとすくわれるね」

「明日も11時半からっていう恐怖はあるよね」

「恐怖。恐怖だったな、今日。昨日とは違う恐怖だったね」

公演が終わっても、まだ13時過ぎだ。今日の仕事はもう終わったので、ビールを飲み始めている人もいる。

「幸せだね」
「幸せだね。死にたい」
「このままね。わかる、わかる」
「明日になる前にね」
「それはわかる」
「わかるっしょ。そうなの」
「全然笑い事じゃないよね」

女子たちの会話に、波佐谷さんが「俺はこのビールをひと口飲んで、その喉越しで死にたいわ」と口を挟むと、「ちょっと、はさっちのは違うと思う」「うん、違う。今そんな話してない」と一斉に否定されている。「最後にうまいものを食べてから死にたい」くらいの気持ちならぼくも想像することができるけれど、終演後に語られていた「恐怖」というのは、一生体感することがない種類のものなのだと思う。

早起きして原稿を書いていると、まだ脳が起きていないせいか、寝言のように妙な言葉をタイプしてしまうことがある。ただ、文章であれば間違えても削除して上書きできるけれど、演劇というのはミスが起きれば取り返しのつかないものだ。

テーブルには古閑さんが作ってくれた塩むすびが並んでいる。このあとはもう、各自で自由に過ごすことになっている。こんなに早い時間に上演が終わってしまうと、一日の大半が余韻のように感じられる。窓の向こうにある小川を眺めているうちに、ここを訪れた朝の会話が思い出された。ここからバスで10分くらいの場所に、竜宮城があるはずだ。

自転車は8台しかなく、ビールを飲み始めている人もいるから、皆で海に出かけるのは難しそうだ。だから、ひとりで自転車をこぎ、海を目指す。

世の中は4連休で、人の移動が増えているのか、街は観光客で溢れている。このあたりの車は姫路ナンバーだけれども、大阪、名古屋、京都、なにわ、和泉とさまざまなナンバープレートが追い越してゆく。温泉街を抜け、『まんが日本昔ばなし』に出てくるような山を眺めながら川沿いを北上してゆくと、15分ほどで小さな漁港が見えてくる。海から集落に水路が続いており、水辺に家が建ち並んでいる。家の前には車や船が停まっている。少しでも水位が上がれば浸水してしまいそうだけれど、この集落は水とともにあり続けてきたのだろう。

そこは津居山漁港という名前であるらしかった。その名前には見覚えがあった。少し前に読んだ広尾克子『カニという道楽 ズワイガニと日本人の物語』(西日本出版社)という本に、津居山という地名が書かれていたのだ。

私は三〇才ぐらいから六五、六才までリヤカー引いていましたよ。あの頃、城崎では小売りする魚屋がのうてねえ、景気ようなって土産を欲しがるお客さんが増えたんです。いっときは四五人ぐらい居ましたよ、あれは四〇才ぐらいの頃ですかね。津井山の魚屋(仲買人)に頼んで、カニを茹がいてもろうて、城崎に運んでもらいました。それを受け取って、温泉街でリヤカーに積んで売ったんです。よう売れる日は、何回も追加してもらいました。大きい松葉(ガニ)は1万円ぐらいしたやろう、でもよう売れました。セコと松葉を合わせて五、六〇〇〇円ぐらいにしたんが一番人気でしたわ。セコなんか一〇〇匹入りの箱をいくつも仕入れて、一日何百と売りました。竹のカゴに入れて、お客さんにそのまま持って帰ってもらいました。

行商は、ようもう買って、みんな大きい家建てましたで。そのあと、駅前に魚屋が三〜四軒できて、お客さんがそっちで買うようになっていきました。行商は同一家族内でしか跡継ぎが認められんようになって、うまみも少のうなって、私がやめた頃にはもう数人しか残ってへんかった。

城崎温泉で「行商のおばちゃん」をやっていた谷垣富希子さんの言葉だ。

ここ津居山漁港からほど近い場所に生まれた今津芳雄という人も、13歳のころからカニの行商を始めた。彼が1962年に創業した「かに道楽」が、冬の味覚としてズワイガニを一躍有名にした。

今年で開湯1300年を迎える城崎温泉は、古くから有馬温泉に次ぐ関西第二の温泉と知られていた。明治42年に山陰線が開通すると、街は一段と賑わいを見せるようになった。戦後の高度成長期にバス旅行が盛んになると、遊興めあての男性団体客が増える。1970年代に街の”浄化”が進むと、客足が一時的に途絶えてしまう。城崎温泉が再び賑わうきっかけとなったのは、より新鮮なカニを求めて産地までやってくる旅行客が増えたからだと、『カニという道楽』に綴られていた。

今では遊興めあての男性団体客も、「行商のおばちゃん」も姿を消してしまった。でも、今でも城崎温泉には多くの旅行客で賑わっている。それはつまり、旅行客を出迎えてくれる人たちがいるということだ。旅に出るということは、その町に暮らす人たちの姿に触れるということでもある。そのたびに、自分は故郷を離れるという決断をして上京したけれど、町に残ることを選んだ同級生たちもいたことを思い出す。

津居山漁港から水路沿いに走り、坂をのぼると、海を一望できる場所にたどり着く。その場所から竜宮城が見えた。海の真ん中に、海中から浮かび上がってきたように、お城のような建物がぽつんと見えた。浦島伝説は丹後半島が発祥の地であり、近くの神社には「乙姫の小袖」が保管されており、その言い伝えをもとに竜宮城が建てられたのだという。

ぼんやり海を眺めているうちに、雨が降り始める。朝はあんなに晴れていたのに。波佐谷さんに、今日の城崎温泉の天気予報も調べてもらっておけばよかった。近くのレストハウスの軒先で雨宿りをしていると、こどもが海岸に駆け寄り、振り返って親を呼んでいる。そこにはコイン式望遠鏡が設置されていて、「見たい」と親にねだっている。ぼくも小さい頃はああいう望遠鏡があるたびに覗きたがっていたのに、今ではどうして見ようとしなくなっているのだろう。望遠鏡どころか、雨に濡れることさえ避けている。

「あ、人がいるよ!」と、望遠鏡を覗いていたこどもが声を挙げる。ぼくの視力では、人の姿は確認できなかった。遠くに浮かぶ竜宮城を眺めながら、あれは一体どれぐらいの大きさなのだろうかと思いを巡らせる。

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