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「BEACH CYCLE DELAY」

藤田貴大インタビュー vol.4 - BCDについて –

2021/12/14

――『BEACH』、『CYCLE』、『DELAY』の三作品の当日パンフレットには、登場人物の名前と、それを演じる俳優の名前が記されています。ここ10年、藤田さんの作品だと、俳優の名前が役名になることが多かったですよね。あるいは、「わたし」「余所者」「灯台守」のように、役どころだけが決められていることが多くて。そんななか、今回の三作品では“あじさい”、“すずしろ”、“よか”といった具合に役に名前がつけられていますが、しっかり役名をつけようと思ったきっかけを伺えますか?

 

藤田 やっぱり、新しいフィクションを立ち上げたくなったってことだと思うんです。だから最初は、ビーチとかアメリカンダイナーを描きたいってことで、極力ビジュアルだけにこだわりたかったし、自分の中にはない全然違うところに作品を持って行きたくて。その上で、マームの初期作品の登場人物につけていたような名前で、もう一回新しくフィクションとしての役を皆に演じてもらいたいっていうのが出発点だったんですよね。昔から植物の名前をつけることにこだわってたから、この三作品の登場人物も皆、植物にまつわる名前をつけていて。

 

――『BEACH』の中で、“すずしろ”が突然歌い出す場面があります。『DELAY』だと、“すずしろ”と“あじさい”がその曲を一緒に歌うことで、「ああ、15年前によくカラオケで一緒に歌っていた曲だったんだな」と観客の中で繋がるわけですけど、その曲がLauryn Hill の「To Zion」で、その歌詞は名づけと深く関係しています。ちょっと話が逸れるかもしれませんが、この三作品のあいだに挟まれるように稽古を重ねて、いわきで上演された『moment』という作品は、“わたし”、“お姉ちゃん”、“お母さん”、“おばあちゃん”と役柄だけが登場して、一切名前が語られない作品でした。『moment』のエピローグには「まだ名前のない海」という言葉も語られていましたけど、名前のなさと、三作品における名前のありかた、あるいは「To Zion」の歌詞にある名づけのようなものって、ひとつのテーマを対岸から見つめあっているような感じもして。

 

藤田 そうですね。『moment』では最後のシーンで海にたどり着いて、「まだ名前のない海」って語るんだけど――「いや、まあ、その海にもきっと名前はあるでしょ?」ってところを「まだ名前のない海」って言い切るわけですよね。それってちょっと、言ってしまうと、「この時間のことも、この海にもまだ名前がなくてほとんど白紙なので、皆さんでつけてください」みたいなことでもあると思うんですよね。あそこに名前があってしまうと、この作品を観ている観客の皆さんの話にならないと思ったんです。でも、『BEACH』『CYCLE』『DELAY』は、ひとりひとりに役名はあるのだけど、名前はないようにも思うんです。役名をつけてるから、物語としては見やすくて、「名前あるの?ないの?」みたいなストレスはないですよね。役名がない演目よりもスッと手を伸ばせるところもあるけれど、つけられた名前自体には意味がない気がするから、やっぱり人物は“白紙”なのかもしれません。

 

 

ふたたび伊達を描く

 

――マームとジプシーの初期作品の多くは、藤田さんの郷里である北海道の伊達という町がモチーフになっていたわけですよね。伊達をモチーフにした三部作を2011年に発表して、その三部作で岸田賞を受賞して。そこからの10年はいろんな土地に出かけて、伊達とは違ういろんな海を描こうとする時間だったとも思うんです。今回の三作品も、「新しいフィクションを立ち上げよう」というところから生まれたというお話でしたけど、こないだ善通寺公演のあとに話していたら、「めぐりめぐって、伊達のことを考えている気がする」とおっしゃってましたよね。

 

藤田 そう、そこが今回のインタビューで話したかったことで。この三作品にはtrippenさんにもかかわってもらって、もうちょっと軽やかに、マームの新しいフィクションを立ち上げようとしてたはずだったんです。たとえば『BEACH』にしても、もうちょっとビーチの楽しさみたいなことが念頭にあったはずなんだけど、なんだかんだで伊達に帰ってきたんですよね。

――伊達の海は「ビーチの楽しさ」って感じとはまた違いますよね。初演の『BEACH』は、今回の上演より楽しさ寄りだった気もしますけど、「ビーチの楽しさ」を描こうとしていたところから、伊達に帰ってきたのはなぜだったんでしょう?

 

藤田 コロナ禍になってから、実は3、4回伊達に帰ってるんです。今年の2月から3月にかけてのツアーがなくなって、ぽかんと空いた3月に、伊達に帰っていて。ほんとに不思議なんだけど、僕が帰るその前日に、後輩が亡くなったんですよね。本当だったら妙高市で公演打ってたはずなんだけど、たまたま伊達に帰ろうとしてたタイミングだったから、お葬式にも行けて。そこで棺桶に入っている後輩の姿を見たときもそうだけど、伊達に帰ると、どこもすべてに当てはまっちゃうんですよね。

 

――当てはまる?

 

藤田 「ここのお寿司屋さんはあの人と行ったな」とか、「この道はあの人と歩いたわ」とか。全部が誰かの死に繋がってしまって、死のイメージが濃くなる一方で。3月に亡くなった後輩と、もうひとりと三人で海に行ったことあったなーとか、思い出すんです。ベロベロに酔ってカラオケしたあとに、「海に行こう」ってなって。僕もベロベロに酔ってたから、真っ暗闇も真っ暗闇な真夜中の海で防波堤にのぼろうとしたときに、「それはやめたほうがいい」って、その後輩に止められたなーとか。そうやって三人で歩いた記憶が謎によみがえってきたから、夏のツアーで豊橋に行ったとき、海まで歩こうってなったんです。「海まで歩くって、何だったんだろう?」って。そういうことを含めて、伊達ってスケールでいろんなことを考えてることに、徐々に気づいてきたんですよね。

 

――無意識のうちに、いろんなことを伊達で考えようとしていた、と。

 

藤田 これはちょっと感覚的な話ではあるんですけど、この10年は伊達から離れよう、離れようと思ってたんだけど、伊達でいいんじゃないかって、春に帰ったときに思ったんです。伊達にしか自分の海はないんじゃないか、って。伊達を描くってことは何だって考えたときに、やっぱり『塩ふる世界。』だったんですよ。

 

――さっき話した、2011年に上演して岸田賞を受賞した三部作のひとつが、『塩ふる世界。』でしたね。

 

藤田 その三部作のうち、二作は『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、 そこ、きっと—————』として再演してるんだけど、そのセットの中に『塩ふる世界。』は入ってないんです。『塩ふる世界。』は、青柳いづみが演じる“ひなぎく”の母親が崖から飛び降りて、その亡骸が海に漂着してるかもねって、ただそれだけの話なんですけど。「『BEACH』を『塩ふる世界。』にすれば新しい『BEACH』は完成するよ」って、今年の春、帰った実家で皆にグループLINEで流したんです。極端に言うならば、『BEACH』のセットリストも全部捨てて、Deerhunterの『Microcastle』でいいよっていう。

 

――『塩ふる世界。』では、全編にわたって『Microcastle』がかかってました。

 

藤田 そうそう。「あのかんじでやれば、結局『BEACH』は伊達だったってことになるんだよ」って、ちょっと頭のおかしい乱暴なLINEを送ってしまって。新しい『BEACH』の“つゆくさ”にはこどもがいないって設定にしたんだけど、こどもがいるんだとしたら“ひなぎく”だし、『BEACH』の最後に“ほおずき”が「どこからか流れ着いた、、、、、、ひとの、、、かけら、、、、、、が、、、、、、打ちあげられたビーチを歩いていた」と語っているのは、もしかしたら“つゆくさ”のかけらかもしれないし、それを聡子(“ほおずき”)が眺めているだけって構図は『塩ふる世界。』とまったく一緒で――そうやって皆に伝えたときに、このマームとジプシーの10年間が一気に繋がったかんじがしたんです。ただ、実際にリハに戻ってみると『BEACH』は『BEACH』で素晴らしくて。ビーチの何ともなさの中に、徐々に漏れ出す暗闇があって、どうやらひとりの女性が崖から飛び降りたらしいって話になっていく。それで、最後の最後に『Microcastle』の1曲目だけ使って。『IL MIO TEMPO』の或るシーンでもあの皆が海を眺めているアングルを使ったんだけど、5人が海を前に『塩ふる世界。』と同じアングルで佇んで、「ああ、つゆくささんとはもうここで飲めないんだ」っていうシーンを描いたんです。

 

 

あのころわからなかったことが、現在なら見える

 

――この10年が一気に繋がったというところと関係しているのかもしれないですけど、作品全体から、時間の分厚さを感じたんですよね。『DELAY』で“よか”は、「わたしは、、、、、、思い出していた、、、、、、あいかわらず思い出していた、、、、、、」と語りますけど、この「あいかわらず」の厚みを感じたというか。15年前のシーンでは、“あじさい”が何を言おうとしているのかわからなかった“よか”が、15年ぶりに再会した“あじさい”に、「でも、、、、、、みえる気がするんだよ、、、、、、あのころ、、、わからなかったことが、、、、、、あのころよりも、、、、、、現在(いま)なら、、、、、、」と語りかけるっていうのは、その言葉に至るまでに膨大な時間があったんだろうなと感じたんです。

 

藤田 『てんとてん』の最後に、「あやちゃんの言っていること、あの頃のわたしにはわからなかった」ってことを“さとこ”が語るんだけど、あれってほんとにそうだなと思っていて。でも、あの頃のわたしたちにはわからなかったことが、今は見えてるはずだって、ちょっとは信じたいんですよ。あのときわかっていなかったことがちょっとはわかってたり、ちょっとは見えてるから今またここで再会できるし、まだ演劇を続けることができてるんだって思いたいんです。今だったら、いなくなってしまった人たちに対して、何かやれるんじゃないか。何か言えるんじゃないか。これ、ちょっと気持ち悪い話かもしれないんだけど、別れ際の顔をはっきりおぼえてるんです。

 

――別れ際の顔?

 

藤田 いつ最後になるかわからないところで皆生きてるから、橋本さんみたいにちょくちょく会ってる人でも、別れ際の画をおぼえるようにしてるんですよね。だから、亡くなったおばさんや後輩のことも、最後の画をおぼえてるんです。今なら見えてることもあるから、「あのとき、もう一言あったんじゃないの」って思うんだけど、あのときはまだ見えてなくて――もう、ずっとそのことだなと思ってるんです。『DELAY』の最後に、“よか”がそれを言うわけなんだけど、あれはすごく不思議な役で、あの人だけプロフィールが見えてこないんですよね。

 

――言われてみれば、たしかに謎ですね。どうやら東京に暮らしているってことはわかるけど、これまでどんなふうに過ごしてきて、今は何をして暮らしているのかわからない。

 

藤田 人の話を聞いてることしかできてなくて、プロフィールが見えてこない“よか”が、最後の最後に“あじさい”に向かって「あのときわからなかったことが、今なら見える気がする」って言い出すのが、僕の中ではすごく熱くて。あっちゃん(“よか”を演じる成田亜佑美)はあれ、どの時間へ向けて言ってるんだろう。僕の言葉で言うと、この10年、この15年に向けて、あの“よか”は言って欲しいなと思ってるんですけど。

 

 

作品の余白

 

――“よか”のプロフィールもそうですけど、この三作は、語られない部分が多い作品でもあるなと思うんです。たとえば『BEACH』と『DELAY』に登場する“れんげ”にもお姉ちゃんがいるってことだけは語られるけど、それ以上のことは語られなくて。『CYCLE』には“はすか”という女性が登場して、その名前と、どちらも長谷川洋子さんが演じているってことを鑑みると、「もしかして、“はすか”が“れんげ”のお姉ちゃんなのか?」と観客が勝手に頭の中で繋げることはできるけど、そこはまったく劇中では語られていなくて。そういう語られていない余白が配置されているのが印象的でした。

 

藤田 この三作を上演することになって、結構ワクワクしてたんですよ。三作合わせると4時間ぐらいになるんだけど、こんなに役名もストーリーも繋がっている三部作は初めてだから、すごい壮大な感じだな、って。だから、最初のうちはキャラクターの意味も全部繋げようとしていて、たとえば“れんげ”に「アメリカンダイナーに勤めていたようなお姉ちゃんなんだよ」って言わせたりして、“はすか”が“れんげ”のお姉ちゃんなんだってことを明示しようとしてたんですよね。でも、最終的にそこは削ったんです。ドラマや映画だと、そこの整合性が重要になってくるから語らなきゃいけないんだろうけど、観客の想像力に委ねることを選べるのも演劇だなと思ったんですよね。だから、あんまり続き物って意識はなくなって、別に“はすか”が“れんげ”のお姉ちゃんじゃなくてもよくて、「ああ、この子はお姉ちゃんがいた子なんだな」ってだけでもいいんじゃないか、って。

 

――余白といえば、印象的だったのが三作を通じて出演している櫻井碧夏さんの存在で。当日パンフレットにはすべて「Other」としてクレジットされていて、ビーチで過ごしている人だったり、ダイナーを訪れるお客さんだったり、ほとんど発語をせず、特に描かれることもないけれど、舞台に存在している人として配置されている。そういうキャラクターが配置されることって、今までなかったような気がして。観客として舞台を見つめているときに、「この人のことはまったく知ることができないままだったな」って人が存在していると、観終わったあとの印象が違うというか。

 

藤田 そういう登場人物を何人か出すって案もあったんだけど、碧夏ひとりにしてよかったなと思っていて。作品の中に誰でもない人が出てるってことが、客席とのつなぎ目になると思ったんです。登場人物6人の話になんとなく決着がつけばストーリーになりそうではあるんだけど、「そもそもストーリーって何?」とも思うというか。完結する人間関係なんてないわけだから、わからない人がひとり配置されるのはすごくいいな、と。

 


登場人物が抱える時間

 

――たとえば『BEACH』の後半に、これから仕事があるのであろう“くこ”を、“よか”が車でラジオ局まで送っていくシーンがあります。その別れ際に、「言っておくけど、、、、、、わたしたち、、、、、、くこちゃんのラジオ番組が始まったとき、、、、、、」「ほんとうにうれしかったからね、、、、、、」「涙がでるくらいだよ、、、、、、」と切り出します。そして最後に、「1年経ったね」って言葉も口にする。この会話が、決定的な別れの場面ではなくて、車で送り届けたあとのふとした時間に交わされているってすごいことだなと思ったんです。そこでその言葉を言うためには、「この思いを“くこ”に届けないと」って思い続けた膨大な時間がないと、こんなタイミングで言い出せないよな、って。

 

藤田 あの台詞って普通なら、バリバリな感じで言うしかなくなっちゃう気がするんだけど、「この人は一年間、何も言えなかったんだろうな」って感じで言えてるから、あっちゃんってすごいなと思うんですよね。なんか、地元に帰るとよく言われるんですよ。「たかくんが雑誌に出てるのを見て、おばちゃん、涙が出るほど嬉しかったよ」とかって。それこそ亡くなったおばさんにも言われたことがあったんだけど、「涙が出るほど」って表現をよくされるんです。その言葉に対しては「ありがとうございます」しかないんだけど、「涙が出るほど」ってすごい言葉だなと思うんですよね。でも、あの感覚って、“よか”と“すずしろ”にはある気がしたんです。

 

――今のは登場人物の中における時間の蓄積や余白に関する話ですけど、俳優に対しても、時間や余白に対して求めるものが変わった部分もあるんですか?

 

藤田 そうですね。僕が見せてるシーンってものが、観客にとって表現のすべてになってしまうんだけど、はたしてそれでいいのかってことを考えていて。シーンに描かれるキャラクターって、その人格の中の一瞬でしかないから、シーンに描かれていない膨大な時間を考えることが大事なんじゃないかって思ったんです。それで言うと、まるまる(荻原綾)って、10年前から“あじさい”って役なんですよ。『ハロースクール、バイバイ』でも“あじさい”で、そこでも海に出るシーンがあって。まるまるって不思議な人で、僕の中では全作品繋がってるんです。この作品では偶然両親を亡くしたかもしれないし、この作品では偶然自死を選んだかもしれないけど、どの作品でも同じ人格できちゃってて。その、まるまると僕の独特な感じを受けて、まわりもどうそのゾーンに合わせていこうか悩んでる部分もあるらしいけど、そこも含めて、続けてきてよかったなと思ってるところで。バンドで言うと「この人がギターでよかった」みたいなことだと思うんですよね。

 

 

日付と乾杯

 

――この三作品は、誕生日だったりクリスマスだったり、ある日付を理由に皆が集まる物語でもあります。日付というのは数字に過ぎないけれど、その日付をきっかけに人が集まるっていうことは美しいことだなって、三作品を通じて思ったんです。

 

藤田 そこは途中から意識し始めたんです。人の誕生日に「おめでとう」っていうのも意外と不思議なんだけど、僕の中ではそこで乾杯することが大切な気がしていて。乾杯という言葉って、すごくいいなと思うんですよね。集まってお酒を飲むってことは特別なことになってきてるけど、乾杯してた時間が懐かしくなるし、愛おしくなる。振り返ってみると、その日その場所に集まって、「乾杯!」って酒を酌み交わす時間っていうのは、ちょっと過去を思う時間でもある気がするんですよね。集まって乾杯することは、今生きている者と、もうこの世界にはいない人のつなぎ目になるような気がしていて。『CYCLE』にしても、あっけらかんと“ふうこ”の誕生日を祝っているようだけど、1年前のその日を境に消えた人もいたわけで。

――そうですね。『BEACH』も、1年前に“くこ”の誕生日を祝うバーベキューパーティーをした日の夜に“つゆくさ”は命を絶っているわけだけど、それから1年経った日に、また皆で集まって乾杯をしています。

 

藤田 そこで乾杯することって、僕はネガティブに思わないんですよ。むしろポジティブなことだと思う。「くこちゃんの誕生日は、同時につゆくささんが亡くなった日でもあるんだけど、今年もこの日にビーチに集まって乾杯をしよう」ってなる――役者さんからすると、そのシーンをやるのって意外と大変らしいんですよね。「そんな日に、ビーチに集まって乾杯するかな?」ってなっちゃうみたいで。そこはフィクションの力で「それをアリだとしてる人たちなんだよ」って言うしかないんだけど、集まって乾杯するポイントを作っていくことが、僕の中では希望なんです。

 

(聞き手・テキスト:橋本倫史 写真:宮田真理子)

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