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「BEACH CYCLE DELAY」

藤田貴大インタビュー vol.2 - CYCLE –

2021/12/12

――『CYCLE』は、今年の10月に初めて上演された作品です。当初は2020年3月に発表されるはずだったのが、新型コロナウイルスの感染が拡大する中で公演中止になって、仕切り直して2021年1月からツアーに出るつもりだったのに、この時期もコロナの影響で上演できなくて、今回ようやく上演にこぎつけたわけですね。

 

藤田 そう、そうなんです。もう2019年の4月ぐらいから準備を始めていて、あの家具たちを買ったのが2019年の6月頃だったんです。そこからずっとお蔵入りになって、倉庫から家具を引っ張り出しては定期的に稽古していて。それが2020年3月にやっと幕を開けられると思っていたら、その前日に『ねじまき鳥クロニクル』の中止が決まって。

 

――東京芸術劇場プレイハウスで上演されていた『ねじまき鳥クロニクル』(原作:村上春樹、演出・振付・美術:インバル・ピント、脚本・演出:アミール・クリガー、脚本・演出:藤田貴大)は、2月28日以降の公演が中止になっています。『CYCLE』はちょうどその翌日、3月1日に渋谷で初日を迎えるはずだったんですよね。

 

藤田 『ねじまき鳥クロニクル』を中止にしてるのに、『CYCLE』はどうしてやれるのかって話になって、『CYCLE』も中止にしたんです。そのあとも色々あって、2年以上延期が続いていたんですよね。

 

――舞台となるのは、「CYCLE」という名前のダイナーです。これまでの藤田さんの作品で、お店という舞台を描いたものは記憶になくて、珍しい設定だな、と。

 

藤田 実はこれ、僕の中ではリベンジでもあるんです。荒縄ジャガーの第一回公演は『透明ザクロ』って作品なんですけど、これはカフェが舞台だったんです。くまちゃん(舞台監督の熊木進)が全部セットを作って、そこにあっちゃん(成田亜佑美)も出てたし、(召田)実子も出てたし、皆出てたんだけど、お店が舞台の作品はあれ以来だなって、めちゃくちゃ楽しみにしてたんですよね。

 

――客席から舞台を見ていると、お店の断面図を真横から俯瞰で眺めているような配置になっています。

 

藤田 個人的にアメリカンダイナーが好きなのもあるんだけど、たとえばどこか居酒屋とかに行ってもカウンター席に座って店員さんの手さばきを見てるのが好きで。「あ、それを作るのはそれぐらい時間がかかるんだ?」とか、「それに合わせて、こっちでこれを焼いてるんだ?」とか、そういう動きをアテにお酒を飲むのが好きなんです。『BEACH』もそうなんだけど、内容として何をやりたいとかじゃなくて、この感じをやりたいってとこからスタートしてるんですよね。そこで独特なキャスティングもしたいなと思って集めたのが、辻本(達也)も含めた6人だったんですけど。

――『BEACH』では旅行客だった“ほおずき”は、ダイナー「CYCLE」の店員として働いていて、ここでは彼女が働くお店の日常が描かれています。作品の冒頭、“ほおずき”がお店に到着して、鍵を開けて制服に着替え、開店準備をする様子が5分以上かけてじっくり描かれています。台詞もなければ音楽もないまま、ただルーティンをこなしていく姿を見つめる時間が印象的で。

 

藤田 自分がバイトをしてた頃も、日々のルーティンとはいえ、店を開けたりするあの時間が好きだったんですよね。音楽をかける前の、支度してる感じ。書店でもカラオケでも居酒屋でも、「バイト嫌だな」と思いながら行ってるんだけど、開店時間までの心躍る感じはあったなと思うんですよね。あの時間をまずは描きたくて、聡子(“ほおずき”を演じる吉田聡子)と話し合って、最初はあの稽古ばっかしてました。

 

 

しゃべり続ける登場人物たち

 

――台詞も音楽もなかった時間を経て、次第に“くすのき”や“もみじ”といった他の従業員もやってきて、お店がオープンします。そこにお客さんがやってきて、オーナーの“かじ”も顔を出して、どんどん賑やかになっていく。ランチタイムで慌ただしいなか、急にエピソードトークを始める “かじ”に、“ほおずき”は「喋るなあ」「喋りたくてしょうがないんだろうな」と結構ドライな言葉を投げかけますよね。「雰囲気わかる?」って聞かれても、「わかんねーよ」って返したり。

 

藤田 そう。酷過ぎる(笑)

 

――さっき「独特なキャスティングもしたい」って言葉もありましたけど、そのあたりの感じも含めて、マームのレパートリー・メンバーと重ねた時間の中から生まれてきたのが『CYCLE』なのかなと思ったんです。

 

藤田 “かじ”って役は、なかじ(中島広隆)って人に当て書きしてる部分もかなりあるんです。「キムタクとおない年」とかってことも、『あっこのはなし』のときから「キムタクとおない年の中島さん」とかって台詞に書いていたことで。ただ、なかじとは別に、trippenの皆さんの感じも僕らとしては面白くて。

 

――『BEACH』、『BOOTS』、『CYCLE』は、trippenとのコラボレーションとして作られた作品でもあります。trippenの皆さんとは、2016年に『ロミオとジュリエット』以降、関わりが続いていますね。

 

藤田 そうなんです。trippenの皆さんと過ごしていると、かかってきた電話に出たときに、「いや、それはね!」って、ちょっと強い口調で話したりしてるんですよ。これは全然茶化してるとかってことではなくて、僕はアルバイトしなくなって10何年経って、リアルな社会には触れなくなってるから、「ああ、先輩と後輩ってそうやって話すんだ?」とかってことに、trippenの皆さんを通じて触れてる部分があって。あと、こないだ鼎談したからあえて言うんですけど、中村さん(trippenセールスマネージャー)って、一見すると関係がないようなことを話したりするじゃないですか。

 

――鼎談のときも、最初の10分くらいはずっと、「マラソンですごい日本記録が出た」って話をされてましたよね。ただの雑談だとは思わなかったから、その部分も含めて掲載してますけど。

 

藤田 そう、一見関係ない話に思えるんだけど、後々になって考えると「あれも靴の話だったよね?」ってなる。そこを“かじ”のモデルにしたところもあるんです。だから、“かじ”さんって実は良いリーダーなんじゃないかなっていうのが僕らの見解で。話し続ける“かじ”に対して、従業員の“ほおずき”は「喋るなあ」とかって言うんだけど、そんなことを言わせないようなムードを作るリーダーだっていると思うんです。でも、そこで「喋るなあ」とかって“ほおずき”が言えるってことは、“かじ”は「たまにきてめっちゃ喋る人」って役を演じてる可能性もある。だとしたら、“かじ”ってめちゃくちゃ良い経営者だと思うんですよね。

 

 

ダイアローグではなくナラティブ

 

――『CYCLE』を観ながら考えたのは、人はどうしてしゃべるんだろう、ってことで。この作品における会話って、『BEACH』とはちょっと位相が違いますよね。『BEACH』だと、「きょう、、、、、、こうして集まったのって、、、、、、なんのためだっけ、、、、、、?」「退屈を埋めるため、、、? 現実をうやむやにして、、、持て余した時間を埋めるため、、、、、、?」ってフレーズも語られていますけど、どこか持て余した時間を生きている感じがある。ただ、『CYCLE』における会話は、決して退屈を埋めるための言葉ではないですよね。

 

藤田 そう。もうちょっと業務的なんですよね。

 

――その業務的な会話に、業務とは関係のない話が混じり混んでくるというか。たとえば“かじ”は、20代の頃に女性と劇場に出かけて、帰りに渋谷のカフェに立ち寄って、初めてエスプレッソってものを飲んだってことを語り始めます。その「渋谷」って言葉にだけ反応して、“くすのき”は突然「渋谷に行きたいケーキ屋あるなあ」って言い出したり。僕はわりと、思い浮かんだことを「これは、この場で話すほどのことでもないか」と仕舞い込んでしまうタイプだから余計に、「そこでそれを言葉に出すんだ?」って思う場面が結構あって。

 

藤田 ちょっと言葉がすべっていく感じですよね。なかじとふな(“くすのき”を演じる船津健太)と3人でいるとああいうことが多くて、ほんと奇跡みたいな瞬間があるんです。なかじが何かの話をしていて、そのエピソードの中で決定的なとこを忘れて出口を見失ってるタイミングで、ふなが別の話を始めたりするんです。ふなの中では繋がってるんだろうけど、僕らの中では繋がりが見えないことを話し始めて。それで、ふなはふなで何か決定的なことを忘れて、「この時間、どうする?」みたいになることが多くて(笑)。ふたりとは福岡で出会ってるんだけど、あの感じが――あれはダイアローグじゃなくてナラティブなんですよね。そのナラティブな感じを、『CYCLE』では描きたかった。あの感じってなかなか伝わらないかもしれないけど、僕の中では超リアルなんです。

 

――昼下がりの店内で、“かじ”が話を切り出す場面もあります。「研修という名ののもと」、“くすのき”と一緒に車で盛岡に出かけて、わんこそばを食べに行ったとき、“かじ”が「すごいいきおい」で食べ続けるものだから、おかわりを入れるお姉さんも前のめりになって、いつのまにか“くすのき”の頭頂部にそばが一本乗っかっていた――と。それで、盛岡からの帰り道、那須塩原サービスエリアに立ち寄ったら、“くすのき”が三つ編みにされたチャーシューを見つめていて。それをすこしうしろで観察してた“かじ”は、「こいつ、、、なんなんだろうな、、、、、、」と少し怖くなる、という場面もあります。このあたりのシーンは、『CYCLE』が初演されるはずだった2020年3月から遡ること数ヶ月、『ぬいぐるみたちがなんだか変だよと囁いている引っ越しの夜』という作品で盛岡に出かけたときのことが元になっているのかな、と。

 

藤田 そうですね。盛岡に行ったとき、裏テーマとしてふなを観察してたら、面白いことばっかやるんです。そこには穂村弘さんの視点もあって。穂村さんと僕で、ふなをずっと観察してたんです。穂村さんとかは3杯ぐらいでわんこそばを食べるのをやめちゃって、無言でふなが食べ続けるのを見てたんだけど、256杯食べたふなが、作品に描いた通り、頭にそばを一本乗せていて。そのあと、帰りに立ち寄ったサービスエリアで、三つ編みにされたチャーシューを無言で見つめていて、ふなって何なんだろうなって観察してたんです。

 

 

ちっぽけな日本の片隅で

 

――その話の流れで、“かじ”がこう切り出します。「やー、、、でも、、、つくづくおもうんだよね、、、、、、クルマなんかで、、、移動しているとさあ」「日本ってちいさいなあ、、、、、、って」「日本ってなんか、、、、、、枝豆みたいじゃない、、、、、、?」と。それに続けて、「こんな枝豆みたいに、、、ちっぽけな日本の、、、、、、しかも片隅で」「ダイナーなんか営んでいるんだけどさあ、、、、、、われわれ」と“かじ”は独り言のように話を続けていますよね。ダイナーというのは生きていくために必要な食事を提供する場所だってことはあるにしても、この「ダイナー」という言葉って、「演劇」とも置き換えられるなと思ったんです。

 

藤田 それはほんとにその通りで。『CYCLE』やりながら思っていたのは、移動してツアーに出るのは時間もかかるし大変な作業ではあるんだけど、「やっぱり日本ってコンパクトだよね」ってことで。日本はこんなにコンパクトなのに、こんなにうまくいかないんだ?って。コンパクトな日本の中で、演劇を表現して小さい時間を作っているだけなのに、それをやれるかどうかってことを何でこんなに悩まなきゃいけないんだろう、って。コロナ禍で作り始めた作品ではなかったから、最初から意識していたわけではないんだけど、延期になってずっと稽古だけ続けているうちに、どんどん自分たちの話みたいになってきたんです。今言ってくれた台詞も、最初のうちはなかったんですけど、結構ギリギリになって「これ、なかじが言ったら絶対いいよね」ってことで書いたんです。

 

――盛岡と那須塩原のあとに、郡山って土地の名前も出てきています。臓器移植するための心臓を運んでいたヘリコプターが、郡山で不時着して、その心臓は結局移植されることはなかった、と。これは2020年2月1日に実際に起こった出来事ですね。

 

藤田 心臓っていうのは、ようはサイクルですよね。循環器におけるサイクルの話をしたくて、盛岡から段々南下して、「そういえば俺らも郡山通ったよな」って、その話をするっていう。盛岡とか郡山とか那須塩原もそうだけど、群馬だとか、大阪だとか、福岡だとか、この作品の中では点を打つように土地の名前を言ってるんです。沖縄とか北海道まではいかないにしても、『CYCLE』を見ていると日本列島の形がぼんやり浮かび上がってくるようにしたくて。

 

――「日本って枝豆みたいじゃない?」って台詞は、以前も使われたことがあるフレーズですよね。

 

藤田 その台詞は、『あ、ストレンジャー』で初めて言った台詞でもあるんです。当時僕は西荻窪に住んでいて、天井に日本地図を貼っていたんですよね。最初は北海道が上に見えるようになってたんだけど、枕の位置を逆にしたら、日本列島がちょっと枝豆みたいに見えて。それで『あ、ストレンジャー』に台詞として書いて――それを思い出して、今回また書いてみたんです。「こんなちっぽけの日本の中でやってるだけなんだ」ってことを、経営者である“かじ”が言ったら面白いんじゃないか、って。

 

――さっきの箇所とも重なるんですけど、開店準備をしている場面で、“もみじ”がこんなモノローグを語ります。「言葉を交わさなくたって、、、通じ合うことってあるとおもうのに、、、、、、言葉を尽くして」「だれかが、、、、、、ここへやってくるのを、、、、、、待っていた、、、、、、準備をして、、、、、、」と。ここもまた、すごく演劇と重なる部分ですよね。演劇は、稽古や場当たりの時間に「それは違う」とか「もっとこういうニュアンスで」ってことをとにかく言葉にして各セクションに伝えて、観客を招き入れる準備をするという。

 

藤田 そこはあんまり意識せずに書いてたんだけど、たしかに、その言葉もほんとそうで。言葉なんてなくてもわかるようなことっていっぱいあるはずだって、最近はかなり思ってる部分はあるんです。「言葉なんかなくたって、この政治家は間違ってるってことはわかるよね?」って。だから、それこそ『CYCLE』の最初の10分間のように、言葉も音もないことをやることだってできると思ってたんだけど。でもこの作品はオープニングの後、進行していくとなんだかんだで言葉を尽くしてるんですよね。それは観客向けに台本としてデザインした言葉だけじゃなくて、演劇ってアナログなものだから、言葉にしないと伝わらないんです。衣装にも照明にも、「このシーンはこうで、だからここで切り替えて欲しい」ってことを、とにかく言葉で伝えていく。それは切り替えて欲しいタイミングだけ伝えるんじゃなくて、いろんな文脈から伝えていかないといけなくて。今という時代の中を生きていることへの言葉のなさとは矛盾があるんだけど、やっぱり言葉を尽くすことに希望を見出そうとしてるから、かろうじて演劇って営みを続けてるんだと思うんです。それに、演劇がこんなに言葉を尽くしてるってことは、橋本さんに話しをしているこのカフェだってカウンターの中ではいろんな言葉を尽くしてるんだと思うんですよね。内側ではいろんな言葉を尽くされているのに、なんで外に出るとこんなにも言葉がない感じになるんだろうって、今ってかなり変な時代だなと思うんです。

 

 

ダイナーの内側と外側と

 

――この作品を観ていて考えさせられることのひとつは、内側と外側のことで。『CYCLE』は基本的に、いろんな人がやってくるダイナーの内側が舞台になっていて、観客はそれを真横から見てるような格好になっています。見方を変えれば、観客は路上から店の内側を眺めているような構図になっていて。店内が賑やかに見えるぶん、その外側の世界が索漠とした感じに見えたんですよね。

“くすのき”がふいに語りだすエピソードとして、パチンコ屋を出てアーケード街を歩いていたところで、誰かに刺されたという話があります。刺されて倒れ込んでいるのに周りの人は誰も立ち止まってくれなくて、「ぼくのまえを通りすぎていくだけなんだよ、、、、、、たくさんの足が、、、、、、というか、、、、、、」「靴だね、、、、、、靴に見えたな、、、、、、靴が、、、、、、とにかく行き交っているんだよ」と“くすのき”は振り返ってます。ます。あるいは、後半に登場する、かつて「CYCLE」で働いていた”はすか”という登場人物は、今は通行量観測調査のアルバイトをやっていて、「ほんとうにたくさんのひとが通りすぎるんだよ」「わたしなんかいないものとして、、、ひとびとが行き交うのね」と話してもいます。ここでは路上は、かなり殺伐とした感じをまとっているな、と。

 

藤田 これも最初は全然意識してなくて、「この配置がきれいだ」ってことで決めていったんだけど、結果的に舞台上が店内になっていて――店先にコカ・コーラのベンチが置かれてるとかってのはあるんだけど――そこから客席側は路地になってるんですよね。観客は路上から窓より内側の世界を見つめる配置に自然となっていて、登場人物たちがときおり外に出てみると、あいかわらず路上はほとんど人が立ち止まらない場所で。ただ、そんな路上の中で、登場人物はやたらと立ち止まっているんです。そこはかなり強調して、しつこいぐらいに描いている気がしますね。

――”はすか”という登場人物は、通行量観測調査のアルバイトの話の流れで、「わたしもわたしで、、、だれの顔も見ないで、、、、、、ずっと数えていく」んだと語ってもいます。通行人がだれのことも見ていないのと同じように、人を「なるべく平たく見ていく」んだ、と。あそこでで思い出されたのは、『てんとてん』で語られる、「ニンゲンに見えてたのかな、、、、、、」という台詞のことで。『てんとてん』は、3歳の女の子が殺されて用水路に遺棄されるという事件が起きた小さな町が舞台になっていて、犯人は「てんを、、、ひとつ消した、、、とか、、、、、、」「それくらいの感覚で、、、殺したのかな、、、」と登場人物が語る場面が描かれます。この「ニンゲンに見えてたのかな」という問いは、マームとジプシーがいろんな作品で考え続けてきたテーマだと思うんですけど、『CYCLE』には少し違う角度が持ち込まれているなと思ったんです。つまり、通行量観測調査というルーティンの中に生きている人は、ひとりひとりの顔を見ていたら追いつかないわけですよね。

 

藤田 そうですね。ひとりひとりのニュアンスを排除していかないと、人って人を捉えられなかったりする。通行料観測調査なんて最たるもので、男性なのか女性なのか、20代なのか50代なのかって縦割りにしていく仕事で。それって「原爆が落とされて“何万人”が死んだから戦争というのは――」というふうに数でその凄惨さを表現することへの違和感に近くて。数値になってしまった時点で、ひとりひとりの顔が見えなくなってしまう。でも、人が数値化されることへの危機感はある一方で「人間ってそうだよな」とも思うんですよね。アルバイトしてたときのことを思い返しても、「あんなにレジを打ってたのに、誰の顔もおぼえてないや」ってことはあったなと思うから。人って「自分は他人と無関係じゃない」って思いたい生き物なんだろうけど、無関係にならなきゃ、やってられなかったり、情報を処理できなかったりすることってあると思うんです。そこは『てんとてん』のときみたいに抽象的な言い方をするんじゃなくて、結構リアルに「わたしってひとりひとりの顔を見れてるのか」と立ち止まっている。“ほおずき”が言っていることを解剖していくと、日々のルーティンにかなり疑問を持ってるし、日々のサイクルから振り落とされそうになってるんですよね。

 

 

日々のルーティンの中で

 

――“ほおずき”は『CYCLE』の中で、高校生の頃から家と学校とアルバイト先の三角形の中だけが行動範囲だったと語っています。「そのころから、、、“とにかく働く”という、、、、、サイクルに」「身を沈めていたわけだよ、、、、、、」と。藤田さんもまた、10歳から演劇をやっていて、家と学校と劇場の三角形のサイクルに身を沈めていたわけですよね。その劇場って場所の中で、俳優ひとりひとりの顔がわからなくなるってことはないにしても、劇場のやってくる観客ひとりひとりの顔はおぼえていられない部分もあるはずで。そういう意味でも、「ニンゲンに見えてたのかな」ってことだけでは片付けられない、日々のサイクルってことを考えざるをえないところが、『CYCLE』からは伝わってくる気がします。

 

藤田 それはね、明確にあるんです。『めにみえない みみにしたい』と『かがみ まど とびら』ってこども向けの作品をやってるときって、役者さんはこどもたちに対してやってるんですよ。終演後の楽屋でも、「こどもたち、可愛かったね」「あそこに座ってた子、食い入るように見てくれてたよ」とかって役者さん同士は話していて。それを聞いてるときに、僕は後頭部しか見れてないなってことに気づいたんです。あんなにツアーしても、こどもの顔をひとりも見てなくて、どういう子がきてたのか、マジでわかんないんです。

 

――上演中、俳優さんたちは舞台から観客の顔を見ているけど、藤田さんは客席の後ろに座っているわけですよね。

 

藤田 でも、そう、おっしゃる通りで、その良さもあると思ってるんですよね。僕がひとりひとりの顔を見てしまうと、やりきれなくなってしまう部分もあるから、「観客」ってことで平たく見ていかないとまずいなとも思うんです。観客皆が「感動しました」ってことになってしまわないように、客席の反応を微妙にずらしていくのもひとつのデザインだと思ってるんだけど、「あの人に向けて」みたいに、ひとりひとりの顔が見え過ぎちゃうとまずい部分もある。その感覚って、結局のところ、人を相対化して見てるってことだと思うんです。

 

――人を相対化してみる?

 

藤田 僕は演出家っていうより、ダイナーにおける経営者みたいな部分もあるから、「マームの作品はこういう人たちが観劇にきてくれて、こういう人たちがどういうふうに思うか」ってことを、どこか相対化して考えてるところもあるんですよね。役者さんたちって、ダイナーで例えるなら店員さんだから、どういうふうに店内でオペレーションしていくかってところの大変さがあるんだと思うんだけど。

 

――『CYCLE』を通して、今の話とは少し違う角度の自問自答が見えたところもあって。作品の終盤に、“はすか”が「ひとって、、、どうして外へでて、、、、、、、『なにか』を食べたいとおもうんだとおもう、、、、、、?」と語りだす場面があります。「たとえば、、、、、、いま、、、この時間、、、、、、『だれか』は、、、映画を観ているよね」「『だれか』は『だれか』を、、、、、、たったいま、、、、、、殺しているかもしれない、、、、、、」「どうやって、、、、、、時間をつかうのが正解だ、、、、、、とか」「これが有意義だ、、、、、、とかいう、、、、、、答えのようなものは、、、、、、無いからさあ」と。これって、あらためて、すごい言葉だなと思うんです。

たとえば“ほおずき”って、高校の頃から働くってサイクルに身を沈めていて、たぶんきっと「演劇を観に出かけてみる」って時間とは無縁に過ごしていると思うんですよね。でも、そんな“ほおずき”に向けて、「そんなふうに人の顔を見れなくなるような状態になってちゃ駄目だよ、たまには表現に触れて、感受性を働かせなきゃ」みたいなことって、絶対に言えないと思うんです。ルーティンの中を生きている人たちを描く時間は、普段は劇場に足を運ばない人たちにどうやって手を伸ばせるかってことを考えることでもあったんじゃないかな、と。

藤田 “はすか”っていうのは、もともと辻本がやってた役だったんだけど、はせぴ(長谷川洋子)に切り替わって、ますますあの役にはなんとなくそのことを担ってほしいって気持ちがあったんです。コロナ禍になって一番悔しかったのは、人ってやっぱり、食べることはやめないわけですよね。住むこともそうだし、ファッションもネットでますます買えるように通販を強化したり。コロナ禍になっても「外食はしたいよね」とか、「外でお酒飲みたいよね」って感覚は消えなかったのに、何で演劇はなくなりそうなんだろうって思ったんです。これはここ4、5年ずっと考えていることでもあるんだけど、そこに手を伸ばしていかないと演劇はなくなる一方だと思っていて。「今日は外食にしようか」と思うくらいの感覚で、「今日はちょっと演劇観に行こうか」って感覚を持てないんだとしたら、次に大きなインパクトのあることが人類や土地に降りかかってきたときに、「演劇ってやっぱ、なくていいよね」ってことにしかならない気がする。そこはもう、これまで演劇が作ってきたムードだけでは無理だと思うんですよ。ただ、この2時間でレストランでごはん食べることもできたし、映画を観ていることだってできたし、いろんなことができたはずなのに、その中で演劇を観るってことを選択してくれた人たちが劇場にいるわけですよね。そこにはもちろん感謝しかないんだけど、その不思議さみたいなものを抱えながら我々は営みをしているんだってことを、このタイミングで言っておきたかったんだと思います。

 

 

消えていったともしび

 

――『CYCLE』に登場する“はすか”は、かつてダイナーで働いていたものの、その後タクシー運転手になって、心臓に疾患を抱えていることで退職し、現在は通行料観測調査のアルバイトをしています。そんな“はすか”が1年前、久しぶりにダイナーを訪れて、“ほおずき”に「パントリーの冷蔵庫の、、、、、、床下にさあ」「うん、、、開けてみてよ」と言い残します。それから1年経って、“はすか”は自宅で人知れずなくなっていて、かつて言われた言葉を思い出した“ほおずき”が冷蔵庫の床下を開けると、そこにピストルを発見する。その場所が「冷蔵庫の床下」という、地面より下ってイメージとともにあるのが妙に印象に残ったんです。

それ以外にも、蛇口をひねっても水が出なくなって水道管工事の人にきてもらう場面でも、その蛇口は井戸水を引っ張ってきてるから直せないと言われてしまう場面もあります。ここにも地下、それに水というモチーフがある。あるいは、“ふうこ”が出会った占い師が、自分の乳房にあったしこりを6年間放置していたら、そこからたえまなく汁が出てくるようになって、それとは対照的に、水が硬く感じて飲めなくなったと体験談を語る場面があります。このあたりの地下、水というイメージが妙に印象的でした。

 

藤田 そこはまだ答えを持っちゃ駄目だなと思っている部分でもあるんだけど、『CYCLE』におけるピストルってモチーフは――こんなちっぽけな日本の片隅で営んでいるダイナーもあれば、こんなちっぽけな日本の片隅で人知れず死んでいく命もあるし、人知れず閉店していくお店もあって、消えていったともしびがある。別に足を運んでくれなくたっていいけど、そこに人知れず消えたともしびがあるってことを、知るぐらいはしてほしいなと思ったんです。ともしびが消えるっていうのは、言ってしまえば水が止まったようなイメージでもある。どこに繋がっているのかわからない水が出ていくようなイメージで、ピストルの音もどこかから聴こえてくる。これは『Light house』(2022年2月から3月にかけて、沖縄と東京で上演予定の新作)にも繋がってくる気がするんだけど、ここに死にそうな命があるし、ここになくなりそうなお店があるってことには、シグナルがあるはずだと思うんですよね。そのシグナルを、ときに人はないことにしたりしてしまうんだけど。そのシグナルがどこかから聴こえてくるんだってことを描きたくて、地下とか水ってモチーフを描いたのかもしれないです。

(聞き手・テキスト:橋本倫史 写真:宮田真理子)

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