mum&gypsy

「BEACH CYCLE DELAY」

藤田貴大インタビュー vol.1 - BEACH –

2021/12/09

――『BEACH』が最初に上演されたのは、2018年の夏、原宿にあったVACANTでした。そのあと年末に新宿・LUMINE 0で再演したのち、2019年の2月から3月にかけて、香川、新潟、福岡、熊本と巡演されています。それから2年半ぶりに上演されたわけですけど、かなり違う作品に仕上がっていることにまずは驚いたんです。かつては「明け方の、ここは、ビーチ」というモノローグから始まっていましたが、今回は「おお」「ああ」とダイアローグを交わすところから――ダイアローグというより、ほとんど言葉が存在しないところから――作品が始まっているのが印象的で。この2年半のあいだに作品が変化した背景から、まずは伺えますか?

 

藤田 2019年の3月に熊本の早川倉庫で上演したあとも、稽古はずっと続いていたんです。制作にも役者にも、「この作品は定例稽古的に継続していきたい」と伝えていたんだけど、それは気配のようなものを感じていたからで。

 

――気配というと?

 

藤田 この『BEACH』って作品の中に、まだ違うことがあるんじゃないかって気配をすごく感じていて。あの当時、モノローグとダイアローグのバランスとか、余白ってものに対して、自分の中で考えていることがあったんですね。だから2019年のツアーが終わったあと、皆と話しているうちに、言葉のないところから始めていくってイメージが浮かんできたというか。ひとりひとりが明け方のビーチを歩いているイメージが舞台上にあるなら、わざわざモノローグで言わなくていいんじゃないかってところからリクリエーションが始まったんです。

 

――オープニングは静かな作品に生まれ変わりましたけど、全体に漂うムードとしては、一旦は楽しく観始められる作品でもありますよね。舞台となるのは東京ではない、どこかの町です。その町に暮らしている“つゆくさ”と“くこ”という姉妹がいて、今は東京に暮らしている“よか”という女性がいて、海の家で働く“れんげ”という女子と、最近はサーフィンにハマっている“すずしろ”という男子が出てきます。「波って、、、まいにち、、違いますからね、、、」「まいにち、、、感情がちがうんすよ、、、地球ってやつは」とかってことを語る“すずしろ”に、“つゆくさ”が「え、、、なに言ってるかわかんないけど」とツッコミに近い台詞を入れていて、観客としても「この男子、何言っちゃってんの?」みたいなノリで楽しく見れる部分もある。あの楽しさみたいなものは、どこから出てきたんでしょう?

藤田 これは初演に向けて作ってるときから考えてたことなんですけど、とにかく自分の話から離れたかったんですよね。『cocoon』とかもそうだけど、僕はこれまで暗い海ばっか描いてきた気がするんです。でも、石井(亮介)くんとのノリもあって――石井くんって、すごい海が好きなんですよ。

 

――“すずしろ”を演じているのが石井さんで、石井さんと藤田さんは大学時代からの付き合いですけど、石井さんはちょっと歩けばもう海ってところで生まれ育ってるんですよね?

 

藤田 そうそう。だから、海のエピソードは結構石井くんの話なんです。ある日、「波って毎日違うから」みたいなことを石井くんが真顔で言い出して、そりゃそうなんだろうけど、「それを真顔で言い出すって、何?」みたいに思う部分もあって(笑)。それ以外にも、石井くんが突然話した謎のエピソードを散りばめてるんだけど、伊達の海からどこまで離れられるかってことを考えていたんですよね。伊達の海ってなると、「そこに死体が打ち上げられる」とか、「その海を越えたら上京できる」とか、海に意味が出てきちゃうんだけど、あの頃は「そもそも海に意味なんかないんじゃないか?」ってことを考え始めていた時期でもあって。あと、僕はビーチで遊んだことってほとんどないんだけど、海の家があるようなビーチを僕が描いてみたらどうなんだろうって、パラソルのことを調べ始めたりして。そういう軽いノリから始まって、「俳優がtrippenの木底のサンダルを履いてるのはどうだろう?」とか、ビジュアル的なことを考えて――だから、楽しい海ってイメージから始まった作品ではありましたね。

 

 

固有名詞で生まれるリズム

 

――その楽しさっていうのは、作品の中に満ち満ちてるなと感じました。さっきの“すずしろ”のサーフィンの話もそうですけど、食べ物の話がたくさん出てきますよね。「デリッツァリモーネってケーキもおすすめですよ」って話してたり、サングリアにどんなフルーツを入れるのかってことを話してたり、タコスの具材はチリコンカンとバッファローチキンとソフトシェルクラブがあって、その三つだとどれがいいかってことを話したり――その羅列具合っていうのは、藤田さん自身の内側から出てきたものっていうよりか、皆とやりとりして出てきたものなんだろうな、と。

 

藤田 そうそう。2017年にマームとジプシーが10周年を迎えて、レパートリー作品ができたんだけど、『BEACH』はそれ以降のレパートリー探しをしていた部分もあるんです。レパートリーメンバーと次にどういう作品を作れるか、皆の話の中から自分のモチーフを見つけるのはどういうことなのか、模索していたところがあって。それで、『BEACH』は横浜で稽古してたんだけど、近くにビーチっぽい料理を出すお店が結構あるんですよね。

 

――たしかに。桜木町駅から山下公園にかけて、そういうお店が結構ありますね。

 

藤田 ひとりじゃ行かない感じのところに、皆と一緒にお昼を食べに行ってみて。ソフトシェルクラブだとか、ケサディーヤだとか、そういうのを注文して、「ああ、結構うまいんだね」みたいな話をして――なんか昔のマームに戻った感じで楽しかったんですよね。昔のマームは衣装さんがついてなくて、皆で服を買いに行ったら、それがそのまま衣装になったりしてたんだけど、『BEACH』はそういうノリで作っていたんです。あとは物語的にも、だれかが死ぬみたいなことを描かずにやれないかなって、2018年の段階では考えてたんですよね。

 

――ケサディーヤって食べ物のこと、僕は見たことも聞いたこともなかったんですけど、そういった単語が立て続けに配置されていくのが印象的で。

 

藤田 耳障りが新しいものって、この世界にいっぱいあると思うんですけど、それが演劇の中のリズムになっていく感じって大切だなと思ったんです。すごいフィクションを描こうとしなくても、ちょっと聞き慣れない言葉が聴こえただけで、「これ、日本のどこなの?」って感じが出ると思うんですよね。飲み物とか食べ物の話が数珠つなぎみたいに連なっていくだけで、「ああ、この人たちはちょっと自分とは違う世界に生きてるんだ」ってことを描けるような気がして、それを『BEACH』では過剰にやってみようと思ったし、それ自体が人間の欲のみたいに見えたら面白いな、と。

 

――人間の欲?

 

藤田 人間って、いろんなものを食べようとしたり、いろんなものを飲み物に混ぜたり、あの手この手で味覚として吸収しようとするじゃないですか。その欲って、ちょっと変だなと思うんです。その一方で、これは『cocoon』に向けたWORKの中でもよく話していることなんですけど、どんだけリゾートだとしても、この海は何万年も前からこの海だったと思うんですよね。『BEACH』の中には「このビーチにシロナガスクジラが打ち上げられて、それが結構大きいニュースになった」って話が出てきて、初めてここにシロナガスクジラが打ち上がったかのように登場人物たちは話してるんだけど、たぶんこの何万年のあいだに何頭か打ち上げられてると思うんですよね。その普遍性と、人間の俗っぽさみたいなものがクロスしてるのがビーチって場所でもある。人ってビーチで遊ぶし、夏になると深夜番組とかで海にナンパしに行く人たちが取り上げられたりしてるけど、ああいうの見るたんびに「人間って変な生き物だな」と思うんですよね。

 

 

ものにまつわる切ない話

 

――『BEACH』の登場人物たちは、サングリアに何を漬け込むかを話したり、デザートはビーガンアップルパイとダッチアップルパイのどっちにしようかと話し合ったりしますよね。ああいう会話を見ていると、自分が偏屈な人間であるせいもあって、「ああ、サングリアとか漬けちゃうタイプね?」みたいなことを、心のどこかで思ってしまうんです。“すずしろ”が波について語っているときに、“つゆくさ”が「え、、、なに言ってるかわかんないけど」って、ちょっと小馬鹿にした感じで言っていたように。でも、「そのひとにとっては、、、、、、とても大切なことかもしれないけど」「“だれか”にとっては、、、、、、どうでもいいようなこと」と台詞で語られているように、自分にとってはどうでもいいようなことでも、“だれか”にとっては大切なことなのかもしれないって気づかされるのが、女子3人が薬局に立ち寄る場面で。日焼け止めが陳列された棚のすぐ隣に、サメの牙のペンダントが陳列されているのを見つけて、「なんでこれが、日焼け止めのすぐ隣にあるんだ」と“れんげ”が言いますよね。そこで“くこ”は、一旦は「誰が買うんだよ」と言ったあと、「でも、お姉ちゃん、持ってそうだな、こういうの」ってつぶやいています。あのシーンは結構印象的で。

 

藤田 そうそう。なんか、買っちゃったやつってあると思うんですよね。ああいうのって微妙に切ないですよね。

 

――藤田さんは以前からよく、ものにまつわる切ない話をしますよね。誰かが買ったものが馬鹿にされているのを見ると、切なくなってしまう、って。それが「自分が買ったもの」じゃなくて、「誰かが買ったもの」だというのが面白いな、と。

 

藤田 なんか、自分はどうでもよくて。自分は――自分が買ったものに対して何か言われても、「ああ、そっか」って普通に納得するから傷つかないんだけど、他人が言われているのは見てられないんですよね。誰かが着てるものが馬鹿にされたり、誰かが持ってるものが馬鹿にされたりするのを目の当たりにすると、小さい頃から立ち止まっちゃうんです。小さい頃は自分の中で言語化できてなかったんだけど、そこにはきっと、時間があったはずなんです。サメの牙のペンダントを買ったんだとして、「それを買おう」ってことに、1秒でなったわけじゃないと思うんですよね。たとえば、僕が高校に受かったタイミングで、初めて家族旅行ってものに行ったんですよ。うちの父さんと母さんは鎌倉探訪会ってサークルに入ってたから、行き先は鎌倉だったんだけど。

 

――お父さんもお母さんも鎌倉が好きだったんですね。

 

藤田 そう、ふたりは鎌倉大好きだから。群馬の家に帰ることはあっても、旅行ってことで出かけるのはそれが初めてで、後にも先にもその一回だけなんだけど、鎌倉に向かうまでに、たぶん鎌倉ガイドみたいな雑誌を読んでたんですよね。そこにネックレス屋さんみたいなのが載っていたのか、弟の恭平くんが「勾玉が欲しい」ってなってたんです。僕は心のどこかで「いや、恭平くん、それを買ったとしてどこにつけていくの?」と思ってるんだけど、「勾玉が欲しい」と思うに至るまでには時間が伴っているはずだから、切なくなるんですよね。「それはダサい」ってことは1秒で言えるけど、それを選ぶまでには時間がかかっているはずだから、ダサいかどうかじゃないんだよって思っちゃうんです。

 

 

“つゆくさ”の身に起こったこと

 

――『BEACH』を観ていくと、少し異質な言葉が出てきたなと感じるのは、“つゆくさ”の妹・“くこ”と、旅人である“ほおずき”が、ふたりでホテルのエレベーターに乗る場面で。“くこ”が泊まっているのが、ペットと泊まれるフロアだってところから、“くこ”が飼っている“ちる”って犬の話になりますよね。そこで“くこ”が、「ちる、、、、、、ちょうど、、、、、、去年の夏まで、、、、、、お姉ちゃんが飼っていたんですよね」「そのあと、、、、、、わたしが、、、、、、というか、、、、、、実家で飼うことになったんですけど」切り出したことで、姉に何かあったのかもと、物語の糸口が垣間見えてきて。

 

藤田 そうなんですよ。あそこ、難しかったんです。

 

――あの場面が印象的なのは、“くこ”の中ではきっと、姉の身に起こったことって、誰かに話すっていう“出口”を持てないまま、ずっと自分の中で蠢いていたんだろうなって感じさせるところで。それがふいに口をついて出たんだけど、旅人である“ほおずき”は、エレベーターに乗っているわずかな時間の中では「そうなんですね」としか返せないというところで。

 

藤田 そうそう。「なんでそれを“ほおずき”に言うの?」ってところもあるんだけど、やっぱり、言わなきゃしょうがなかったんですよね。あそこ、すごい難しかったんですよ。“ちる”の問題。“ちる”の話は、ほんとに夏子(“つゆくさ”を演じる中村夏子)の話なんだけど。

 

――“つゆくさ”の家ではずっと犬を飼っていて、歴代の犬全部に“ちる”って名前をつけている、という。

 

藤田 あの説明ってややこしいんだけど、でも、あそこでしか言い表せないことがあって。『BEACH』って作品は、あのへんから不穏になっていくというか、「もしかして…?」みたいな方向に持っていかなきゃいけないタイミングでもあるんです。サメの牙のペンダントを売ってる薬局から帰ってきたあとに、実はもう“つゆくさ”は死んでいるのかもしれないって方向に持っていくことを、この劇は“ちる”に関する説明で描こうとしてるんです。それが意外と難しくて。

 

――あのエレベーターの会話って、さりげないやりとりでもあるから、ぼんやり観てたら聞き逃してしまう可能性もあると思うんです。“つゆくさ”の身に降りかかったことを、もっと仰々しい切り出し方で描くことだってできるとは思うんですけど、あれぐらいさりげない転換の仕方で描きたかったのが『BEACH』という作品でもあるのかな、と。

 

藤田 人が死んだってことを浮かび上がらせようとするんだったら、インパクトのあるシーンを置いてしまえば一発だったりするんです。“くこ”からの電話を受けて、“すずしろ”が“つゆくさ”の家に駆けつけたとき、「お姉ちゃんが崖から飛び降りた」とかって直接的に言えばそれで一発なんだけど、『BEACH』の中で一番やりたくなかったのがそれなんです。この作品では、夏の微妙な穏やかな時間のフロウの中に、生きるも死ぬも実はあるって感じにしておきたかった。だから急降下はさせたくなくて、波のようにうねっとしている流れの中で、「あれ、どうやら、死んでる?」ってことが漏れ出してくるように描きたかったんです。だから、「お姉ちゃんがああなったあとに、“ちる”は自分が引き取った」って言葉を言うにしても、それを“よか”相手にいきなり話し出したら、ちょっとしゃらくさいと思うんです。それを初対面の相手に話して、言われたほうも「そうなんですね」としか言えない関係のほうが面白いなと思ったんですよね。

 

――“つゆくさ”に関する物語は、初演のときとかなり変わってますよね。初演のときは、彼女は何か抱えているんだろうなと思わせる描写はありましたけど、今回は明確に、自ら死ぬことを選んだことが描かれています。

 

藤田 初演のときはあんまり明言してなかったんだけど、早川倉庫でやってるときに、皆でわかった感じがあったんですよ。『BEACH』って何だったんだろう、って。そのときは「“つゆくさ”と他の皆が、共謀して“つゆくさ”の夫を殺したんじゃないか?」と思ったんです。そこから徐々に不穏な方向に向かい始めて、そういう作品として描き直そうとしてたんだけど、それもまた徐々に変わっていって。

 

 

「完ぺきな一日」

 

――どうやら“つゆくさ”さんは、1年前のバーベキューパーティーのあとに自ら死を選んでいます。それは妹の“くこ”の誕生日に開催される毎年恒例のバーベキューパーティーで、その日は“くこ”からしたら「完ぺきな一日」だったと語られています。だからこそ、その夜に命を絶った姉に対して「どうして?」と思わずにはいられないわけですよね。ただ、今日は完ぺきな一日だって思ったときに、「いつか死ぬんだとしたら、今この瞬間に死にたい」と思ってしまうような感情というものがあって、本当にそこで死を選んでしまう人もいるのかもしれないなとも思ったんです。

 

藤田 そこに至るまでも色々あったんだけど、皆と話しているなかでも、やっぱり“つゆくさ”は自殺したんだろうなという話になって。そこを考えていくなかで、「パーフェクト・デイ」って言葉が思い浮かんだんです。

 

――あの日は「完ぺきな一日」だったと“くこ”が語る場面では、ルー・リードの「パーフェクト・デイ」がかかっています。

 

藤田 “くこ”が「完ぺきな、、、そう、、、、、、完ぺきな1日だったんだよね」って語る場面――あれはすごくいいなと思うんだけど、でも、別にその日が幸せの最高潮だったとかってことではないと思うんですよね。「タコス食べて、パフェも食べて、バーベキューもして」とか言ってるけど、それって意外と何気ない一日でもあるというか。ただ――ルー・リードの「パーフェクト・デイ」が頭の中でぐるぐるしてて、あれも「パーフェクト・デイ」と言いながら、陰気な歌なんですよね。あの曲を久々に劇中でかけたくなったっていうことがあって。これは『CYCLE』にも繋がっていく話なんだけど、今年の春先に僕の後輩が亡くなったんだけど、その子も亡くなる前に和菓子を買っていたって噂が――あくまで噂レベルの話なんだけど――僕のところに届いてきて。その噂を聞いたときに、若干混乱したんです。「亡くなる前に和菓子を買っていた」っていう、その噂が僕の耳に聴こえてくるって何なんだろうな、って。残された側はそうやって、「なんであのタイミングで?」とか、「和菓子を買っていたのに?」とかって、死とは別のイメージを持ち込んで、その人の自死を考えようとする流れがあると思うんです。それって何なのかってことを、“つゆくさ”って人を通じてやってみたかったっていうのがあったんです。

 

 

“選ぶ”ということ

 

――この作品の中では、いろんな人がいろんなことを選んでいるなって思ったんですよね。たとえば、“くこ”と“れんげ”も、バーベキューパーティーのあと、デザートをビーガンアップルパイにするのかダッチアップルパイにするのかって選択について話してますけど、すごく俯瞰した視点に立ってみると、そうやってデザートを何にするかってことを選ぶように、これ以上は生きないってことを選択した“つゆくさ”がいるわけですよね。

“つゆくさ”の身に何か起きたのだという気配が立ち込め始めたところで、“すずしろ”がサーフィンについて語るシーンがリフレインされます。そこで語られる「波って、、、まいにち、、、違いますからね」「怒っている日もあれば、、、悲しんでいる日もあるし、、、、、、もちろん、、、たのしい、、、、、、!」「日も、、、、、、ね、、、、、、?」という台詞は、人間の感情の揺れ動きにも当てはまります。その波と向き合いながら、「日常のなかに、、、、、、この時間は、、、これをやる、、、、、、っていう、、、、、、テーマを」「季節ごとに、、、、、、じぶんに課していく」しかないんじゃないかっていう“すずしろ”の言葉は、自ら死を選んだ“つゆくさ”との会話として違う響きを持ってくるし、その一方で、そこで“すずしろ”に「え、、なに言ってるかわかんないけど」と返す“つゆくさ”にはもう、届けられる言葉がないなっていう感触が残ります。

 

藤田 そうなんですよね。全然――全然届いてないんですよね。その届いてなさって残酷だなあと思うんです。たぶん、何言っても届かなかったんだよな。何か言ってあげたり、踏みとどまらせるようなことが僕にもできたんじゃないかって一瞬思うんだけど、たぶん届かなかったんだろうな、って。残された側は、あとから「なんで?」って答えを探そうとするんだけど、死んだ本人はたぶん、「なんで?」とかじゃないんだろうなってことを、いろんな角度から見直してみたかったんだと思います。“つゆくさ”って結構素っ頓狂な感じで、首輪を外した“ちる”をビーチで走らせながら「きもちー、、、、、、」とか言ってたり、タコスを選ぶときも「そしたら、、、、、、圧倒的にわたし、、、、、、ソフトシェルクラブだな」とかって言ってたり――夏子のあの感じも相俟って、「何なの?」みたいなムードもあるんですよね。矛盾したワードばっかり出てくるっていうか。

 

 

“現在”という時間

 

――その素っ頓狂なムードから、やがて“つゆくさ”は、「すべてわたしが選んだことが、、、、、、現在(いま)という時間を作っているから、、、、、、」「だから、、、、、、わたしが、、、、、、わたし自身を、、、、、、現在(いま)、、、ここで、、、、、、」「どうにかするしかないんじゃないか」という気分にたどり着いてしまう。そうして自ら死を選んでしまった“つゆくさ”に対して、“よか”は「ううん、、、、、、それはちがうよ、、、、、、つゆくささん」「じぶんひとりでは、、、どうにも、、、、、、どうにも、、、できないことってあるんだよ」「あなたひとりで、、、それを選んだんじゃない、、、、、、あなたひとりのせいじゃない」と語りかけます。この言葉は、これまでのマームとジプシーとは明らかに違うところだなと思ったんです。

たとえば『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』だとか、『カタチノチガウ』、2015年の『cocoon』、あるいは『BOAT』といった作品だと、過去・現在・未来という時間軸の連なりの中で、「未来という時間を作るのは、未来から振り返れば過去になる現在という時間だから、現在って時間にわたしたちがどういう選択をするかが大事なんだ」というモードが強くあったと思うんです。でも、ここで“よか”が語る台詞は、そんなふうに思い込まなくていいんだよってとき解そうとする言葉でもありますよね。

 

藤田 そこは、結構僕自身、打ちのめされたってところがあって。演劇表現にはまだ記憶にもなっていない今この瞬間の美しさがあるし、現在を積み重ねていくことが未来になっていくわけだから、現在を作っていくしかないって、結構強い意志でやっているんです。だけど、コロナ禍の中で僕の周りでふたつの自死があって――その人たちはもう、「いま死ぬしかない」とか、「いま自分はいないほうがいい」とか、「いまつらくてしょうがない」とか、「いま自分でどうにかするしかない」って思ったんだと思う。とにかく「いま」って言葉があったんじゃないかって気がするんです。その「いま」って言葉に、頑張んないで欲しかったなって思っちゃったんです。そこで頑張んないで、言って欲しかったなって、やっぱり思うんですよ。「僕に言って欲しかった」とか言ってるわけじゃなくて、周囲のだれかに。人は結局のところひとりで生きてるんだって感覚や観点はすごくわかるんだけど、「でも、だれかいたはずだよ」みたいな気持ちは、残された僕としてあって。「ひとりじゃどうにもできないことってあるんだよ」っていうのはかなり本音だし、それをあっちゃん(“よか”を演じる成田亜佑美)には言って欲しいなと思ったんです。

 

 

外側からの視点

 

――最後に、“ほおずき”についても話しておきたくて。初演の『BEACH』では、彼女のこのビーチのかかわりが終盤に描かれてましたけど、今年の上演ではそこが削ぎ落とされていて、「なぜだか1年前にこのビーチを訪れたことがあって、今年もまた、なぜかここを訪れている」ぐらいの設定になっています。ただ、そんな旅行客である“ほおずき”がいることで生まれるものがあって、さっき話したエレベーターの場面でも、この土地で起こった出来事をほとんど知らない相手だからこそ、“くこ”はお姉ちゃんの話をぽろっと話すことができたわけですよね。舞台の終盤に、“ほおずき”以外の登場人物たちが海辺のベンチに座って佇んでいる場面があって、その登場人物たちはその土地とかかわりがあって、それぞれ何か抱えて暮らしている。そこにはきっと澱んだ何かもあるはずなんだけど、その場面で“ほおずき”はひとり別の場所に立って、椋鳥の群れが飛んでいくのを見上げて、「ねえ、、、、、、海の底だよ、、、、、、ここは、、、、、、この海は、、、、、、なにも失われていないよ、、、、、、」「なにも失われていないから、、、、、、こんなにもきれいなシロナガスクジラの、、、、、、」「しかもお腹を、、、、、、泳いでいるお腹を、、、、、、こうして眺めることができるんだよ、、、、、、」というモノローグを語ります。その土地で起きた出来事を抱えて生きている人たちは、それこそ海のどん底に沈んでいるような気分になってしまうけれど、そんな中で上空を見上げて「きれい」と言い出せるのは外からやってきた何も知らないだからで、そういう旅人が存在していることがあの作品における希望だなと感じたんです。

 

藤田 見上げると全然違う景色があったり、ちょっと視点を変えると普通の風景が広がっていたり――“ほおずき”には『BEACH』の中で抜けを求めていて。初演とは台詞やスタンスが変わっていっても、“ほおずき”に求めるのはそういうことで。

昔のマームだったら、死んでしまっただれかに対して、残された皆が同じ距離感でいた気がするんです。たとえば『てんとてん』だと、死んでしまった“あやちゃん”と他の登場人物は皆友達だったけど、『BEACH』だと関係性がひとりひとり違っていて。“くこ”からするとお姉ちゃんだし、“すずしろ”や“よか”は昔からの知り合いのようだけど、“れんげ”はまだ知り合ってそんなに長くなさそうで。そうしていろんな距離感がありながらも、他の皆が“つゆくさ”のことを考えている中で、“つゆくさ”のことをまったく知らない人が、その日もビーチを歩いている。そこで椋鳥の群れを見て、ただ「きれいだな」と思う。そういう感覚って抜けになるから、それがあるかないかで全然違うと思うんです。その役を(吉田)聡子がやってるのもよくて。『てんとてん』のラストで、“さとこ”が上京するシーンってすごくきれいなシーンのようだけど、あの子はすごい閉塞感の中で上京したんだと思うんです。でも、今回の“ほおずき”は一歩外れた視点にいて、あの言葉を語るっていうのは、『てんとてん』の先をいけてるなって感じがしてますね。

(聞き手・テキスト:橋本倫史 写真:宮田真理子)

©2018 mum&gypsy