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「路上 ON THE STREET」

特別企画 藤田貴大×橋本倫史「路上」対談 後編

2020/10/11

『路上』では、演劇作家・藤田貴大、ライター・橋本倫史が東京の「路上」をモチーフに、毎月それぞれのテキストをWEB上で発表してきました。橋本はドキュメントという視点から街を記し、藤田はフィクションとしてシーンを描きます。1年間かけて発表をしたのち、最後は舞台作品となる予定です。

9月の公開で第6回目を迎え、折り返し地点となった本企画。毎月テキストを書いている二人に、感じたことや印象的な出来事など、これまでを振り返りながらお互いに話をしてもらいました。

(全2回 後編/8月25日収録)

『路上 ON THE STREET』 http://mum-on-the-street.com/

 

 

「退屈」な時間をどう過ごすか

 

藤田 街を歩いてると、立ち止まっている人たちに目がいかないですか?

橋本 たしかに。

藤田 こんな早朝に、ベンチに座ってただ一点を眺めている人がいるんだ、とか。

橋本 『路上』で歩いてるときは、そこに佇んでいる人たちに何かを見ようとしているから、余計に目がいくかもしれないですね。それに、街を行き交う人たちはどこか目的地に向かって移動している人たちが多いから、路上にいることが目的となっている人たちは目につきやすいというか。

藤田 橋本さんがよく言ってくれるけど、「退屈」っていう概念が自分の中にも漠然とあるんです。こんな企画ができているのも、ある意味で退屈があるからかもしれなくて。僕らはその時間の中にある退屈を使って、『路上』とかいって歩いてる可能性だってある。不忍池を歩いたとき、池のほとりに佇んでる人を何人か見かけたけど、その人たちと僕らの何が違うのかって考えると、何も違わないんじゃないかと思うんですよね。僕らは僕らで退屈を使って歩いてるし、その人はその人で退屈を使って佇んでるわけだから。時間というのは基本的に平等で、その時間に対してどういう圧力をかけるかってだけだと思うんです。それについて毎月考えるんですよね。『路上』の戯曲の中でも、登場人物たちがなんで歩いているのか、あんまり理由を書きたくなくて。なんか歩いている人がいるように、なんかベンチに座っている人がいて、忙しぶってる人だって圧力のかけかたさえ変えれば「退屈」って言葉に当てはまってくるかもしれないな、と。

 

<隅田公園>

 

橋本 何に時間を使うかってことで考えると、面白いですよね。たとえば昼間からビールを飲むとして、なにもない部屋の中で飲むことだってできるけど、「今日は天気が良いから、屋上のテラス席でビールを飲んだらうまそうだな」とか、「海まで行ってビールを飲むのは楽しそうだな」とか考えたりする。それは全部、自分に与えられた余白の時間をどう過ごすかってことですよね。たとえば自分の家を建てようとしている人がいたとして、その人が「ここに広めのバルコニーをつけて、そこでビールを飲んで過ごしたら楽しそうだな」と思って設計したとする。僕がその人にインタビューして、どうしてこんなに広いバルコニーにしたんですかと質問すれば、「僕は昔からビールを飲むのが好きだから、休日にここでビールを飲めるように設計したんです」と答えてくれると思うんです。そう答えるともっともらしい理由になるけれど、じゃあどうして休日という時間をビールを飲むことに費やすのかと考えていくと、明確に理由と言えるほどのものはないはずで、ただ自分に与えられた時間をどう過ごすかってときに、なんとなくそれを選択しているってだけだと思うんですよね。だって、昼間から公園でビールを飲んでいる人を見かけて、その人に「なんでビールを飲んでるんですか?」と聞いたって、「なんでとかじゃねえよ」って怒られるだろうし。

藤田 ほんとそうですよね。「なんで」とかじゃないんだよね。

橋本 その「退屈」っていうテーマは、藤田さんの新作の系譜から浮かんできたことなんですよね。どうとでも過ごすことができる「退屈」な時間があったときに、近所に散歩に出かけてビールを飲んで過ごす人もいれば、その時間に作品をつくろうとする人もいるし、犯罪を計画する人だっているという。

藤田 そうなんです。まだ公演できてない『CYCLE』って作品で描こうとしていたことって、それに近い部分があって。それはレストランを描いた作品なんだけど、レストランで食事をするって時間を選んだ人がいるけど、その時間を誰かを殴る時間に充てている人もいるかもしれないし、誰かと不倫する時間に充ててる人もいるかもしれないし、人を殺す時間に充てている人もいるかもしれなくて。すごく平たく言えば、それはどう違うんだろう、と。世間体や人のルールから外れてないってだけで、ここでうまいものを食べるってことと、誰かを殺すってことは、時間というレベルでは変わらないんですよね。

 

誰かの時間を傾けられるような場

 

藤田 これは演劇にもつながってくる話で、劇場に足を運んでくれるお客さんを見ると、「なんでこの人たちは、自分の時間を俺の劇に使ってくれるんだろう?」って、どんな大きな舞台をやっているときでも思うんです。ちょっと我に返るというか。学生のころからほとんど同じメンバーと演劇をつくってきたから、そこにまったく知らない人たちが集まってくれる状況がほんとうに不思議で。2時間なら2時間っていう上演時間に、おいしいものを食べに行ったり、恋人と過ごす時間に充てたりもできたはずなのに、「この2時間っていう時間に、800人が『BOAT』を観にきてくれるんですか?」って我に返ると、変な気持ちになるんです。でも、劇場にきてくれる人たちは、他に何かに充てられるような時間を、演劇に使ってくれてたんですよね。

橋本 演劇が上演できなくなってしまったことで、それを再認識した、と。

藤田 僕はこれまで、他の何かにも充てられるような時間を、そんな場をつくってたんだと思ったんです。観客に向けて作品をつくったとかではなくて、誰かが2時間を傾けられるような時間をつくっていたという意識しかないんだけど、やっぱり退屈がなければ演劇なんかなかったと思います。その退屈な時間を誰かに仕切られ始めると、演劇なんてないんですよ。最近は「退屈な時間で演劇なんか見に行かないでください」って言われているようなものだし、僕らもその退屈な時間を演劇に充てることができないって前提でいるものだから、これまで演劇に傾けていた時間をどこに充てればいいのか、わからなくなるんですよね。でも、この『路上』だって、きっちり読もうとすると1時間とか2時間かかりますよね。その時間だって、「絶対読んでください」とか、「見逃すと損ですよ」と言えないのはそこで、言えたとしても「時間があれば読んでください」ぐらいなんです。

橋本 そうなんですよね。5分で読んでもらえるなら、いくらでも「是非!」って言えるんですけどね。

藤田 発表しているからには、その2時間を費やしてくれたら本当に嬉しいし、『路上』のページで2時間立ち止まってくれれば、それに越したことはないんだけど。このページを見てくれる人の2時間を考えると、ほんとうに不思議な気持ちです。この状況になって、劇場で演劇が発表できなくなったから、皆いろんな方法を代用して発表するしかなくなりましたよね。でも、マームとジプシーとしては、もともと劇場で発表されるはずだった作品を、Zoom演劇やオンラインで発表する形にはしたくないってことは常々話していて。僕としては、劇場に足を運んでもらう2時間と、そのページに立ち止まってくれる2時間に変わりはないし、4000円のチケットを買ってくれることも4000円のTシャツを買ってくれることも、これに代わることはないと思ってやってるから、それぞれのクオリティはきちんと守りたいと思ってるんですよね。ただ、上演って時間を他の何かに簡単に代えられるなら、そもそも劇場で上演しなくていいんじゃないかと思うんです。

 

クオリティが試されている時期

 

橋本 僕から演劇という表現に対して言えることは少ないですけど、今の話から思い出されたことがあって。こんな日々を過ごすことになってから、よく言われることがあるんです。「橋本さんみたいな生活をしてきた人って、今の状況だと、大変ですよね」って。たしかにあちこち移動し続けてきたけど、今の状況は別に、大変ではないんですよね。移動することに対して、批判的なまなざしが向けられるようになって、遠くのどこかにある酒場に飲みに出かけることが憚られるような雰囲気になってしまって。でも、その状況の中で、たとえば「どこかのお店の料理を取り寄せて、自宅でちょっと良いツマミを食べながらお酒を飲もう」って気持ちには全然なれないんですよ。僕は別に、その味を堪能するためだけに店という場所に出かけてきたわけではなくって、その場所を訪れることにお金を払ってきた、というか。だから、Zoom飲みみたいなことは一度もやらないままだったし、酒場で過ごしてきた時間を別の何かで代用しようとは一度も思わなかったんですよね。

藤田 なんで人は、「代用」だと認識することをやるんだろうね? 「代用」っていうのはやっぱり、劣化させているだけだなと思っちゃうんですよね。「代用」で事足りるんだとすれば、そもそもそれはやらなくてよかったっていう認識なのかなって思ってしまうというか。僕はその認識にはなれなくて、たとえばsuzuki takayukiさんの衣装を着るはずだった公演があるとすれば、それを着ないで上演することはありえないわけです。その意味で言うと、クオリティを落とすことがアリかナシか、かなり試されている時期だな、と。その意味で言うと、『路上』はそういったことはしてないなと思うんです。そもそも予定通りだったし、企画的にはむしろ、この状況になって質は上がっているなという。

橋本 たしかに、そうですね。いつものように過ごしている年であれば、僕も月に何日かは東京を離れていただろうし、その月に歩く場所に対して、ここまで時間を割いて調べられなかっただろうから、逆にクオリティは上がってる気がします。

藤田 そうそう。だから、この『路上』は、最終的にはちゃんと演劇にしたいんです。劇場にお客さんを招く形で、来年のゴールデンウィークに公演したいな、と。その時期に東京がどうなっているか、わからないけれど、すごい楽しみなんですよね。コロナ禍以降の演劇がどうなっていくのかをなんとなく想像してみて、『路上』はそれが可能なんじゃないかと思っています。

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