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mum & gypsy 10th Anniversary Tour

藤田貴大 特別ロングインタビュー vol.1

2018/08/04

マームとジプシーは今年で10周年を迎え、7月から9月にかけて全国6都市をめぐるツアーも控えています。そこで今回、マームとジプシーの主宰である藤田貴大に10年の歩みを振り返るインタビューを収録しました。全5回に分けて更新されるロング・インタビュー、第1回目となる今回は、マームとジプシーの旗揚げから、2011年2月の『コドモもももも、森んなか』の再演に至るまでの初期作品について振り返ります。

 

マームとジプシーを旗揚げするまで

――藤田さんがマームとジプシーを旗揚げしようと思ったのはいつですか?

藤田 マームとジプシーの前にやっていた荒縄ジャガーという劇団を解散して、あちこち旅に出たりしてたんですけど、大学3年の夏に屋久島に行ったんです。そのあたりから徐々にマームとジプシーの構想は温めてたんですけど、当時は荒縄ジャガーのメンバーは僕に会ってくれない状態だったんですよね。でも、森山ちゃん(現在も藤田作品でよく舞台監督を務める森山香緒梨)だけはなぜか連絡を取っていて。それで、たしか大学4年の春だったと思うんですけど、実子(役者・スタッフとして関わる召田実子)と森山ちゃんを「ジョナサン」に誘って朝まで話したんですよね。まだ「マームとジプシー」って名前も決まってなかったけど、構想だけはあって。荒縄ジャガーは何がいけなかったのかっていうことを含めて、半ば謝るような気持ちで、「こうすれば自分としての作品を作れるかもしれない」ということを話したんです。

――そこで藤田さんは、「最初は作・演出をする演劇作家、テクニカルなことを把握している舞台監督、企画・運営をする制作という3つのセクションをまず決めて、そこでどういう作品にするかを話し合って、最後に役者にオファーするという形でマームとジプシーを旗揚げしたい」ということを二人に伝えたわけですよね。そうやってまずは自分を「母体」(=マーム)として作品を立ち上げていく、と。その考えにたどり着いたのはなぜでしょう?

藤田 キャスティングという言葉に違和感があるということは当時から皆に言ってたんです。「キャスティングする」=「俳優をキャスティングする」だと思われているけど、それって実は違うよねと思ったんですよね。誰を舞台監督にするか、誰を制作にするかもキャスティングだと思ったんです。たとえば照明家をキャスティングするとしても、照明家はどんな照明でも得意なわけじゃなくて、「こういう作品が得意だ」ってことがあるよねってことを、「ジョナサン」でずっと話してました。だから、旗揚げ公演の『スープも枯れた』は稽古に入るまで慎重に進めて、役者も慎重に選んで、台本もある程度できてから稽古に入りましたね。

 

――団体名に「ジプシー」という言葉を入れたのは、「放浪するように作品を作って伝えていきたい」と思ったからだと聞きました。そこで興味深いのは、旗揚げ公演の『スープも枯れた』は、狭い範囲とはいえ3つの会場で上演されていることです。

藤田 旅ということは最初からかなり意識してましたね。どんな作品だったかあんまり覚えてないですけど、『不思議の国のアリス』をモチーフにした作品だったから、どこかの惑星の地下世界の話だったんです。それで全部地下にある会場で上演したんですよね。でも、最初は金銭的にキツくて。大学の劇場を借りるのは保証されてるから大丈夫なんですけど、集客するためにはチケット料金を2000円とかにはできなくて、最初からお金はキツかったです。

2007年 スープも枯れた

 

桜美林大学のプログラム

——旗揚げ公演では、現在では役者としてかかわる成田亜佑美さんが制作を担当したり、現在では制作を担当している林香菜さんが出演したりしているわけですよね。さきほど話した「先にスタッフをキャスティングする」という話も含めて、マームとジプシーのありかたには、母校である桜美林大学のプログラムの影響も大きいんじゃないかと思うんです。

藤田 そうなんですよね。平田オリザさんが桜美林にいた頃といなくなった頃とで違ってくるところはあるんだけど、桜美林大学の演劇専修には「俳優コース」みたいなものはなくて、一年生の時には公演の予算を組む授業を受けさせられるんです。他にも基本的な音響のスピーカーの組み方や照明の組み方も必修で、それは他の大学とちょっと違うかもしれないです。

――ちなみに、『スープも枯れた』の稽古は順調だったんですか?

藤田 当時はまだ深夜バイトをやってて、めっちゃ辛かったです。授業が終わって22時まで稽古をするんですけど、僕は22時からバイトなんです。深夜バイトに週6か週7で入っていて、朝の8時まで働いて、学校も行かなくちゃいけない。今でも覚えてるのは、『スープも枯れた』の稽古をしてる最中に寝ちゃったんです。普通、稽古中に寝ないじゃないですか、そこで寝ちゃって、僕はもう「たぶんダメだろうな」と思ったんです。

――でも、旗揚げ公演の3ヶ月後には第2回公演の『冬色こーと/クラゲノココロ』が上演されています。それを考えると、案外順調だったのかなとも思うんですけどね。

藤田 僕が荒縄ジャガーを解散した時によくしてくれた先輩たちがいて、その人たちは金沢文庫のほうに住んでいる人たちだったんです。その先輩たちに「短編集みたいな公演をやらないか」と誘われたんですよね。だから、『冬色こーと』は僕の作品じゃなくて、『クラゲノココロ』も40分ぐらいの作品なんです。それは金沢文庫にある「カフェギャラリー&窯 ばおばぶ」で上演しましたね。

 

どうすれば場所を成立させることができるのか?

――この10年を振り返ると、マームとジプシーは劇場以外の場所でもよく作品を発表してきましたよね。

藤田 旗揚げのときから「いろんなカフェでやろう」ってイメージはあったから、森山ちゃんと実子に相談したあとにいろんなカフェに行って、「僕の作品をやらせてもらえませんか」とお願いしたんです。自分で企画書を書いて、散文みたいなのを書いて、「こういうのをやりたいんです」って。あるカフェでは「戦争物じゃないとダメだ」と断られたり、そういうことをしてましたね。

——劇場以外の場所でやりたいと思ったのは、何かきっかけがあるんですか?

藤田 さっきも少し話しましたけど、大学3年の時に屋久島に出かけて、「ときどき滝が見える」ってカフェに入ったんですけど、そこの営みがまた演劇をやろうかなと思えたきっかけだったんです。それは夫婦でやっているカフェで、特別オシャレとかってことではないんだけど、全部に対してちゃんとこだわってる店だったんですよね。当時の僕から見ても、その空間を成立させようとしているように感じたんです。その頃はまだ「劇場でやらないといけないんじゃないか」と思ってたんですけど、1日に10人くらいのお客さんと接するカフェをこうやって大切に成立させている人たちがいるのに、大学生の分際で何を「1回の公演に80人呼ぶにはどうすればいいか」とか考えてるんだろうと思っちゃって、場所のつくりかたをすごく考えたんです。たとえばコーヒー1杯に600円出すのは結構良い値段だけど、そこにはコーヒーの値段だけが含まれてるわけじゃないと思うんですよね。そこでオーナーと会話することとか、そこで考えることとか、そういったことが600円という値段を成立させている。こういうふうに場所を成立させることができたら、演劇ってものを信じ直すことができるかもしれないと思ったんです。だから、チケット料金を成立させるものは何なのかってことは旗揚げ当初から皆に話してましたね。

――カフェで上演された『冬色こーと/クラゲノココロ』があって、次に上演される2008年3月の『ほろほろ』は最初の転機となる作品ですね。この春に藤田さんは大学を卒業しています。

藤田 今思い返しても不思議なのは、『ほろほろ』の時にシーンを繰り返してるんです。しかもそれが海のシーンで、「人が海に入って行って消える」という謎のシーンなんですよね。小さい頃、僕の先輩の友達が海で死んだっていう出来事があって、今思えばそれと繋がってるのかなと思うんだけど、当時はまだ自分の話を皆にしてななかったんです。自分の原風景はむしろ隠してましたね。

――作品にしてなかっただけでなく、話してもいなかったんですね。

藤田 話してもなかったと思います。ただ、『ほろほろ』に関して言うと、平田オリザさんがいなくなってからは大学の先生たちに嫌われていたような気がしていました。理由はわかりませんが。コンテンポラリーダンサーの木佐貫邦子さんだけはたまに声をかけてくれてましたけど。この公演は桜美林大学で一番大きい「PRUNUS HALL」で上演して、卒業公演ってことでメモリアルな感じになってたんですけど、こんなに大学に対して不義理な人間が、どうやら先生たちからも嫌われてるのに「PRUNUS HALL」でやるのは何だろうってことをすごく思ったんです。ただ、この時には石井(役者の石井亮介)とあっこ(役者の斎藤章子)が実家に帰るとか言ってたんです。それが一番大きかったですね。

 

大学を卒業する春に上演した『ほろほろ』

――大学卒業のタイミングは一つの分かれ道ではありますよね。藤田さんはその時期、どんなことを考えて過ごしてましたか?

藤田 就職はまったく考えてなかったんです。この時期に「ヴィレッジヴァンガード」(町田ルミネ店)がオープンして、夏が始まる頃に働き始めるんです。ただ、まだ書いてたいなって気持ちがあって、就職するんじゃなくて演劇を続けようと思ってましたね。それで、石井とあっこがいなくなるのが寂しかったのは――石井は荒縄ジャガーにもかかわっていたし、僕と石井は結構似てたんです。大学2年生の時に石井の妹と僕の弟がそれぞれ桜美林大学に入学して、お互い二人暮らしが始まったんですよね。それまでお互いの家でよく飲んでたんだけど、二人暮らしになったことで飲む場所がなくなって。当時はそんなにお金もなくて、居酒屋とか行けるわけじゃなかったんです。そこでマームのみんなで飲む場所になったのがあっこの家だったんです。でも、大学卒業のタイミングで石井とあっこが消えて、それは寂しかったですね。それで「二人にもう会えなくなる」と思って、『ほろほろ』なんて、はなればなれになるみたいなタイトルをつけちゃって。

――当日パンフレットに書かれた藤田さんのテキストは、「今まで、たくさんの人と別れてきて、きっと、これからも、別れるだろうと、そう思って、この作品は出発した」という書き出しで始まり、「さよなら、さよなら。先に、行きます」と結ばれています。孤独感に満ちながらも、それで進まなければと自分を奮い立たせている文章ですよね。この『ほろほろ』という作品が「地球最後の一週間に人びとが散り散りになる」という物語だったのは、そうした状況も影響してるのかなと。

藤田 それもあるとは思うんですけど、僕はミッシェル・ガン・エレファントが好きだったんです。マームとジプシーという名前の由来は「放浪しながら作品を作って伝えていきたい」からだって説明してますけど、ミッシェルの「ジプシー・サンディー」って曲が好きだったってこともひとつ理由としてあるんです。大学生の頃、バイトがない日は家で小説や映画を観て過ごしてて、永遠の日曜日みたいな時があったんですけど、そういう時間にずっとミッシェルを聴いていて。それで、ミッシェルのデビュー・シングルが「世界の終わり」で、それを僕なりに解釈すると「この人たちは結成した時からバンドが終わることを想像してるな」と思ったんです。僕の頭の中でそうやって文字化けしていく感じになって、「集団というものは終わりに向かっていくしかないわけだから、大学で偶然出会ってしまったけど、僕というものを才能だと思わずに、ほとんどの人が去っていくんだろうな」と思っていたんですよね。その頃にはもう青柳さん(役者の青柳いづみ)やあっちゃん(役者の成田亜佑美)や実子は「違う劇に出る」と言ってたんです。だから、「自分を母体にひとりで作品を立ち上げる」とか格好つけて言ってたけど、僕の元から誰もいなくなるシステムを作ったに過ぎないんだろうなということは『ほろほろ』の時に思ってましたね。

 

現実の世界で起きた出来事とどう向き合うか?

――なかなか辛いインタビューですね、これは。でも、そこで記憶になっていってしまうものや、すべてのことにはいずれ終わりが訪れるということに考えを巡らせていたことが、次の『ドコカ遠クノ、ソレヨリ向コウ 或いは、泡ニナル、風景』に繋がったんじゃないかと思うんです。これは電車に乗り合わせた乗客たちが事故に至るまでの時間が描かれた作品ですが、ここまでの作品と違ってモチーフがある作品ですね。

藤田 モチーフになっているのは2005年のJR福知山線脱線事故なんですけど、この『ドコカ』の稽古をしている時期に秋葉原の無差別殺傷事件があったんです。そのこともすごく考えてたんですけど、作品を作る上で現実のことを考えたのは初めてだったんですよね。そこでなぜか母親が話していた、母親が昔飼っていた猫の話を思い出して、「それをテキストにしたい」と思ったんです。

――今の藤田さんは、直接的に言及することは少ないですけど、作品を作る上で今の世界をどう意識するかってことは相当考えてますよね。マームとジプシーを旗揚げした頃は、世界に対してどういう意識でいたんですか?

藤田 そこは今より力強くなかった気がしますね。「もう起こってしまったことは仕方がなくて、そこに対して人は諦めるしかないんだ」という態度だった気がします。『ドコカ』を作っている時に、僕の地元で起きた僕の中でインパクトのある事件があって。しかもその事件が起こった一年後とかそれくらいに事件のことを知るという。そのことを淵野辺の駅前で皆に話したのを憶えています。でも、その頃はまだ世界や記憶に対して今よりもずいぶん冷たい目を向けていて、「でも、ちょっとは思い出すことがあるよね」ぐらいの感じでした。

――じゃあ、記憶というモチーフは作品を重ねるなかで明確になってきたものだったんですね。面白いなと思ったのは、『夜が明けないまま、朝』は二つの部屋を移動しながら観劇する作品で、その頃から観客にどんな時間を過ごしてもらうのかは考えていたわけですね。それは、たとえば当日パンフレット一つ取ってみても、普通の紙にぺらんと印刷したものを配るのではなくて、凝ったものを作って配っていたわけですよね?

藤田 当日パンフレットは初期の頃から作ってましたね。『ごほんごほん』もカフェ公演だったんですけど、その時も「ワンドリンクってだけじゃなくて、料理も出してもらえませんか」ってことを相談してました。今思うと、制作がほとんどいない状態だったってことですね。

――マームの作品が特徴的なのは、「舞台美術」という役職がクレジットされることはほとんどないですね。ただ、その一方で「部屋づくり」や「布制作」、「オブジェ制作」という形で青柳いづみさんや荻原綾さん(役者)がクレジットされる公演もあります。

藤田 たしかに、謎ですよね。普通の演劇の部署を疑い過ぎていたんだと思います。音響の担当者は絶対につけなくて、小さなラジカセを手にして俳優が再生ボタンを押すという感じでした。やっぱり、僕じゃないデザイナーが自分の作品に入ることを恐れてたんだと思います。それはほんとにカフェの考え方で、カフェには店主以外にデザイナーはいないんです。でも、演劇はどうしても分業制になっていて、「僕がやりたいと言ってやってることなのに、なんで僕以外の誰かがデザインするの?」と思ってしまっていたんだと思います。

 

「たかちゃんは今、演劇が楽しそうじゃないよ」

――2009年に入ると、『夜が明けないまま、朝』が上演されています。これは10周年ツアーにも含まれている作品で、タイトルにもあるように夜を描いています。

藤田 荒縄ジャガーの時にやった『夜、さよなら』という作品があって、その頃から夜ってモチーフはあったんです。『夜が明けないまま、朝』を作っていた時期は、アルバイト先の人たちと毎晩のように朝まで飲んでいて、基本的に寝て過ごした夜はないんです。それはでも、大学時代から「夜は寝ないものだ」と思ってたんですよね。それで「明日過ごすお金がないな」と思って過ごしたり、読む漫画も林静一さんの作品だったり――『夜が明けないまま、朝』はまさにそういう作品ですけど、この時期のマームとジプシーは、部屋で暮らしている二人を描いてるんです。それは四畳半でその日暮らしをしてる二人を描いた漫画や小説を読んでた影響だと思うんですけど、この時期はコドモっていうより、リアリティのある20代を描いてましたね。

――この時期に関して印象的なのは、旗揚げからずっと季節と一回のペースで作品を発表してきたのに、2009年は2作品だけで、ガクンと頻度が落ちますね。

藤田 2008年11月の『ブルーとベリー』のあとに、初めてマームとジプシーの反省会をしたんです。その頃はまだ淵野辺に住んでて、そこは弟の恭平君の部屋だったんです。大学生の頃は恭平君と二人暮らしだったんだけど、そこに住んでていいのは大学四年生までってことに藤田家としてそうなってたんですよね。でも、僕はフリーターだったから、見かねた母親に「恭平君が卒業するまで住んでていい」と言われてて。でも、僕が本当にだらしなくて、恭平君にも迷惑がられて、しかも借金もありましたね。

――それは何で生じた借金だったんですか?

藤田 『ブルーとベリー』は初めてSTスポットで上演した作品なんですけど、それは全額払わなきゃいけなかったんですよね。それで、『夜が明けないまま、朝』はギャラリー公演なんですけど、それも前金で全額払わなきゃいけなくて、その時も借金したんです。その頃住んでた部屋は二階なんですけど、何度か飛び降りようとしましたね。それで、『ブルーとベリー』の反省会で、伊野香織(役者)に「たかちゃんは今、演劇が楽しそうじゃないよ」って言われたんです。伊野って普段そういうこと言わない人間だから、それをハッキリおぼえてるんだけど、それが結構辛かったです。それで「さすがにちょっと稼ごう」と思って、アルバイトしてましたね。

――この時期はまだ、作品がすごく評価されているわけではないですよね?

藤田 まったくないです。各所に送った申請書や企画書は全部落ちてましたね。この時期は毎朝公園で飲むことを自分に課していて、明け方の4時ぐらいは猫の時間なんですけど、5時になるとカラスの時間に切り替わるんです。それを眺めながら飲むってことを毎朝してましたね。滑り台の下に座って、一番安いビールを買って眺めるっていうのを自分に課してたんです。

——……よく演劇を辞めませんでしたね。その時期、それでも続けられたのはなぜですか?

藤田 『夜が明けないまま、朝』をヴィレヴァンの人たちが観にきてくれて、下北沢で朝まで褒めてくれたんです。あと、この作品は初めて(吉田)聡子が出演した作品だったり、就職して地元に帰っていた“あっこ”(斎藤章子)が帰ってきてオーディションを受けにきた作品だったりするから、その意味では大きな作品でしたね。作品は全然評価されなかったし、難しかったですけど。

 

 初めてこまばアゴラ劇場で上演した『たゆたう、もえる』

――でも、年が変わって2010年になると『たゆたう、もえる』があり、初めてこまばアゴラ劇場で作品を発表しています。初期の活動としては、アゴラで作品を発表することは一つの目標だったわけですよね?

藤田 そうですね。それまでもアゴラには2回ぐらい申請をして、2回とも落ちてたんです。その頃には同世代や年下もアゴラで作品をやっていて、僕的には本当に遅いアゴラだったんです。それで、川崎の「ヴィレヴァン」にヘルプで行っていた時に、留守電に「アゴラの申請が通りました」って連絡が入ってたんですよ。休憩時間に母親に電話して、「平田オリザさんの持っている劇場でできるようになったよ」って伝えたら、母さんが初めて受話器の向こうで泣いたんです。

――桜美林大学に入ったのも、平田オリザさんがいるからってことだったわけですよね。それはご両親も知ってたことだから、嬉しかったんでしょうね。

藤田 最初の頃は格好つけて「マームとジプシーはカフェでやる」とか言ってたけど、「演劇をやっていくには、こことここではやらないと」っていうムードになって行ったんです。この『たゆたう、もえる』で初めて両親を呼びました。でも、やっとアゴラでやれたのに、オリザさんは僕の劇を観てくれなかったんです。その期間、オリザさんはアゴラにいたはずで、彼が劇場のエレベーターに乗り込んでいく後ろ姿を見て泣き崩れた記憶があります。

林(制作) その姿を後ろから見てました。

藤田 その時期に関して言うと、僕の作品に出てくれてる人たちがなんで僕とやっているんだろうと、かなり疑問がありました。僕の作品の稽古場なのに僕以外の作家の作品のことを話していたり、青柳さんもどんどん出演を決めてしまったり。毎晩悔しくて泣いていました。その頃は家賃3万円の風呂なしアパートだったんですけど、その家賃も払えなくて、しかもこのままだとこの生活がずっと続くんだろうなと思って焦っていましたね。

 

『コドモもももも、森んなか』でたどり着いた、コドモというモチーフ

――このインタビュー、本当に辛い話が続きますね。初期の作品たちの区切りは、このインタビューでは『コドモもももも、森んなか』に置きたいと思っているんです。上演の順番としてはアゴラで上演された『たゆたう、もえる』より先、2009年11月に初演されてますけど、これはコドモという時代を描いた作品ですね。

藤田 コドモ時代を描くというのは、この作品から編み出されたんです。それまではリアルな20代を描こうと思ってたんですけど、せっかく劇場でやるのであればコドモの身体を演じるのはどうだろうって考え始めたんですよね。

――「せっかく劇場でやるのであれば」と言うと?

藤田 僕は役者になろうと思って上京したんですけど、「僕はもう役者をやらない」ってことを考えた時に、役者という職業のことを改めて考えたんです。役者さんは普段は普通にしゃべってるのに、舞台に上がった途端に他人の言葉しかしゃべれないって、ちょっと変なことだなと改めて思ったんです。自分が書く仕事にシフトして、改めて役者という仕事を振り返ってみた時に、「誰かの言葉をしゃべるしかない役者というのは、実はコドモなんじゃないか?」と思ったんですよね。コドモというのは誰かの言葉のコピー&ペーストで話していて、誰かの言葉を自分のボキャブラリーとして貼りつける。自分の中にある感情をあらわすにしても、ボキャブラリーの選択肢が少なくて、身体全体で泣いたりするじゃないですか。その姿を役者と重ねたんですよね。だから、このあたりから演劇論を考え始めたんです。それまでは自分がどうやって演劇をやるか、どういう場所でやるかという公演システムの話は考えてたけど、あんまり上演のことは考えてなかったんですよね。でも、ここで俳優が言葉を発することを考え始めて、「俳優とどう付き合おうか」と考え始めたんです。俳優は僕の言葉を言うんだけど、「僕の言葉っていう限られた言葉で何かを捻出するって、コドモが泣く時と同じじゃん」と思ったんですよね。あと、この頃に偶然歩いてたら、すれ違った小さい女の子が「そりゃそうだけど私、四時半からバレエだよ」ってすごい早口で言ったんです。それを聞いて、ハッとしたというか。家に帰って、なんでハッとしたんだろうなと考えたんですけど、そんな小さい子がそのしゃべりかたで「そりゃそうだけど私、四時半からバレエだよ」ってしゃべった時、そのボキャブラリーがすごく引っかかって。それがコドモと役者が繋がった瞬間だったんです。

――そこで不思議なのは、『コドモ』で描かれるのは14歳という時代だということです。この作品に限らず、ここから14歳という年齢を描く作品が続きますよね。言葉のなさを考えるのであれば、もっと幼いコドモを描く方向に向かうのかなと思うんですけど、14歳を選んだのはなぜですか?

藤田 『コドモ』だと、実子はもっと小さいコドモの役だったけど、聡子とか青柳さんは14歳だったんです。それは完全に自分に重ねてましたね。14歳の時に「学校が嫌だな」と思う出来事があって、学校を遠くから眺めてたんです。『しゃぼんのころ』もそれを描いてるんですけど、あの風景をやれないかなと思ってたんですよね。

――旗揚げされた頃の話として、「自分の原風景は隠していた」という話がありましたよね。この作品の時に、ようやく自分の記憶をモチーフに描き始めたんですか?

藤田 そうですね。それは『コドモもももも、森んなか』でくっきり出たかもしれないです。自分の記憶をモチーフとして描くことにハマり始めて、脳内で伊達をロケハンし始めたんです。この作品で徐々に集客が伸びて、横浜の人たちの目が僕に向いた感覚があったんですよね。あと、『コドモもももも、森んなか』で一番大きかったのは、ひきこもってた尾野島(慎太朗)さんが観にきてくれたことなんです。大学時代より2、30キロ太ってんじゃないかって尾野島さんが観にきてくれて、「オーディションを受けませんか」ってことを僕からじゃなくて波佐谷(聡)さんから言ってもらったんです。

 

リフレインいう演出/初めての再演=「RE」について考える

――旗揚げまもない頃から繰り返すという演出はあったとしても、リフレインという演出が際立ってくるのも『コドモ』からですね。この作品を初期作品の区切りにしたいと言ったのは、リフレインのことともう一つ、マームとジプシーが初めて再演した作品でもあるからなんです。2009年11月に初演されたあと、2011年2月に再演されています。リフレインという演出は、「演劇というジャンルにおいて、稽古で同じシーンが反復されるし、公演期間中は同じ作品は繰り返される」ということから思い浮かんだという話もありますけど、再演というのも繰り返しですね。ただ、藤田さんは常に再演ということに慎重であると思うんですけど、ここで『コドモ』を再演しようと思ったのはなぜですか?

藤田 誰もそんなこと思ってないかもしれないけど、初演の『コドモ』で、やっと皆とかかわり直せたと思ったんです。荒縄ジャガーを解散してからはそういう実感を持てずにいたんだけど、ここでようやくそう思えたんです。その実感を再確認できたらと思って再演したんです。だからこれは感情としての再演でしたね。これは坂あがりスカラシップ(横浜の急な坂スタジオ・野毛シャーレ・STスポットが連携する、稽古から上演までをサポートする若手舞台芸術家の創作支援プログラム)に選出されて初めての公演だったから、たぶん求められていたのは新作だったと思うんだけど、僕はあの作品をもう一度クリエイションしたいと思ったんです。

――再演の当日パンフレットには、「そう、言うならば、これはリサイクル(recycle)の作業だ、そのままの形体でもう一度使うリユース(reuse)の作業とは異なっていて、粉砕・溶解・分解の作業から始める、リサイクル、だ」という言葉があります。リフレインも含めて、この時期の藤田さんは「RE」ということについて考えを巡らせていたんじゃないかと思います。

藤田 結構考えてましたね。『コドモ』の初演があって、そのあとの『しゃぼんのころ』って作品でもめちゃくちゃ繰り返したんです。リピートってレベルではなく、リフレインってレベルで繰り返したんですよね。『コドモ』の初演から「RE」の考え方がエスカレートして、稽古が辛くて「何させられてるのかわかんない」ってことで役者が泣いたこともあるんですけど。「RE」のサイクルの中で『コドモ』をもう一度上演してもいいかもしれないと思えたし、あそこで描いたことは原風景だよなと思ったんです。

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