mum&gypsy

「てんとてん〜」2020年 ドキュメント DAY1-DAY7

DAY 3

2020/09/19

2020.9.17

ダイニングルームにラジカセが置かれている。その隣にはずらりとCDが並んでいる。そのほとんどが、『てんとてん』のクリエイションが横浜で始まったころ、藤田君がブックオフで買ってきたものだ。そのアルバムの中から、藤田君はFugaziの『In on the Kill Taker』を選んでかけていて、最後の1曲が聴こえている。そこに俳優の皆が集まってくる音がして、全員揃ったところで藤田君が語り出す。

「稽古場で話しそびれたことなんだけど、この作品には、“あやちゃん”が『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』という言葉でノートを埋め尽くそうとしてたって話が出てくるけど、そうやってノートに言葉を書くって、すごいことだなと思ったんだよね。そのノートに書かれていた言葉を、“さとこちゃん”が作品の冒頭で言うわけだけど、それはつまり、ノートを誰かが発見して、それが開示されたことで、皆は“あやちゃん”がその言葉をノートに書き殴ってたことを知ったんだと思う。だから、この作品に出てくる人たちは、その言葉を知っている人たちなんだよ。それはつまり、“あやちゃん”の身に起きたことを知っているってことでもある。ある人にとってはその言葉が呪いになっているのかもしれないし、ある人にとっては希望になってるかもしれないし、ってことなんだよね。自分で書いておきながら、そのことは意識したことがなかったんだよね。

『てんとてん』をつくったころってさ、最初に作品のタイトルを言うのがマームのデフォルトみたいになってたじゃん。それは字幕にタイトルが出るような感覚でやってたんだけど、あの頃のマームみたいに、『まずは現実とフィクションのあいだに立ってタイトルを言います』ってことだけじゃないと思う。最初に“さとこちゃん”があの言葉を言うってことは、『どうして私がこの言葉を知っているかっていうことをお見せします』ってことでもある気がするんだよね。そのことを何回も考えてるから、それを詳細に再現するんだろうね。

その『詳細に再現する』っていうのは、演劇表現にも当てはまることで。『てんとてん』はもう65回も公演してきてわけだし、そのリフレインがあるわけだよ。これまで演劇をやり続けて突っ走ってきたけど、それが半年間中断されたとき、『あのとき、あの人にああ言われたのは』とか、『あの作品でああいう感想を持たれたのは』とか、久々に反芻したんだよね。反芻できないぐらいの速度で来ちゃってたけど、この期間にいろんなことをリフレインして。そのことって、通じると思うんだ。ぼくとまったく同じじゃないにしても、この期間に過去と向き合った人たちが劇場に来るんじゃないかと思うんだよね。そう考えると、今話してることって、うまく言語化できないけど、有効な気がする。

『てんとてん』はここ数年、フィクションとしての強度を強めてきたと思うんだけど、今年は――初期の頃とは違う意味で――現実と向き合っていかないと無理だと思うんだ。前に上演したときと違って、マスクをしなきゃいけないとか、消毒しなきゃいけないとか、そこの現実感みたいなものはどうしたって劇場に持ち込まれるわけだよね。去年の烏鎮公演では『こどもとして演じ切って欲しい』みたいなことを言ってたけど、それと同じようにただただこどもを演じ切るっていうのは無理があるんじゃないかと思う。ただ、そうはいかなくなった2020年にやるにしても、この作品には考え甲斐があるし、フィクションとしての強度もある。だから、現実とだけ闘おうとしなくても、皆がフィクションをやってくれれば、ゆくゆくは現実と繋がっていくようになると思う。

『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』っていうのは、抽象的な言葉だけど、ぼくはあの言葉を見るたびにすごく大切な言葉だなと思うんだよね。この異様に長いタイトルを皆が演じてくれることによって、その言葉が観客ひとりひとりに届いて、持ち帰ってくれる。演劇っていうのは、ひとっていう“てん”が劇場に集まってくるだけだと思うんだよ。その“てん”と“てん”が接しているのが上演時間だとすれば、上演時間が終わると“てん”はまた世界中に拡散していく。それが“せん”だとして、そこから“立体”が出来て、その中にある“ひかり”を考えていけないのか――っていうことを、結構まじめに思うんだよね」

藤田君が俳優の皆に向かってそう語っていたのは、昨晩のことだ。あれから夜が更けて、朝がやってきて、ぼくはICレコーダーに記録された声を文字に起こした。文字に起こすとき、音声を再生し、一時停止し、巻き戻し、また再生する。そうやって繰り返し声を聴きながら、言葉を反芻する。俳優の皆も、それぞれ別々のやりかたで、藤田君の言葉を反芻しただろう。

13時半、アップを終えた俳優の皆が舞台上に集まってくる。稽古着ではなく衣装を身に纏っている。音響や映像、それに照明の仕込みが完了し、いよいよ劇場でのリハーサルが始まる。劇場には、扉はあっても窓はなく、扉を閉ざせばそこは暗闇だ。「こんな暗いとこ、この半年間いたことなかったわ」と藤田君が笑う。

ぼくは普段演劇にたずさわっているわけではないから、長時間劇場の中で過ごしていると、窓が恋しくなる。でも、演劇にたずさわる人たちは、ずっとこの劇場の暗闇の中にいて、そこにひかりを灯そうとする。

「今回は“場当たり”(テクニカル・リハーサル)に2日間取れるから、まあちょっと、ゆっくりやっていきましょう」。藤田君が語ると、冒頭のシーンからリハーサルが始まる。冒頭のシーンが一区切りついたところで、「はいはいはい」と藤田君がマイク越しに声を出し、リハーサルは中断される。

「えっと、そうね。このマイクの音って、エフェクトはかかってないですよね?」

「かかってないです」

「じゃあ、会場だね。この会場は独特の反響があるね。野外みたいな音の響き方がする。あの、上についてる赤いのは何ですか? あれは――キャットウォーク?」

藤田君が見上げた先、ステージのずっと上のほうに、赤い階段があった。その階段はどこにも繋がっていなくて、トマソンと化している。ここにはかつて額縁のようなプロセミアム・アーチの舞台があり、舞台の上にスピーカーが組み込まれていて、そのスピーカーに向かって赤い階段がつけられていたのだ。その舞台が解体された今でも、赤い階段だけは残されている。それを見上げながら、「なんか屋根みたいに見える」と藤田君が言う。

場当たりが進むなかで、藤田君は何度も「暑くない? 大丈夫?」と俳優に確かめる。俳優の皆は、いつもより汗をかいているようだった。どうやら外では雨が降り始めているらしく、湿度が上がっているのだと劇場スタッフの方が教えてくれた。劇場は換気システムが作動していて、空気は入れ替わり続けている。これまで劇場は外の世界から隔てられた場所だと思っていたけれど、空気は外と繋がっている。

「ちょっと、滅多にないくらい雨が降ってます」。そう教えられて、場当たりをしばし中断し、皆で様子を見にいく。演劇が上演される空間を一歩出れば、そこには窓がある。窓の向こうは豪雨で、窓にも水滴が打ちつけている。あんな細い雨どいから、どうやってあんなに水が噴き出すのかと不思議に思うほど、滝のように水が流れている。その様子を、劇場の中から茫然と眺める。

テキスト・撮影:橋本倫史

©2018 mum&gypsy