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「sheep sleep sharp」
藤田貴大 インタビュー

2017/03/11

今年で旗揚げ10周年を迎えるマームとジプシーが、2017年のゴールデンウィークにオリジナル作品を発表する。タイトルは『sheep sleep sharp』、会場となるのは2016年に彼らがこけら落とし公演を行ったLUMINE0だ。作・演出を務める藤田貴大と共にLUMINE0を訪れ、この10年を振り返るとともに、新作の構想について話を聞いた。

『ロミオとジュリエット』を経てたどり着いたオリジナルの新作

――LUMINE0で公演するのは、去年のゴールデンウィーク以来ちょうど1年ぶりですね。こうして同じ場所で公演するってことに対する感慨はありますか?

藤田 感慨深いですね。場所としても素晴らしいし、立地も良いから嬉しいんだけど、それ以上に劇場っていうのは定点だと思うんですよね。各地に劇場っていう定点があって、それは移動せずに同じ場所にあるわけですよね。変わらない場所にあるからこそ僕らの変化もわかるというか、その感じと付き合っていくのが楽しいんだと思います。

――マームとジプシーは今年10周年を迎えて、夏には全国ツアーも控えています。今回の新作はそれに先立つ形で上演されるわけですけど、このタイミングで新作を作ることにしたのはなぜですか?

藤田 LUMINE0で公演をやるってことは去年から決まってたんですけど、“新作”をやるつもりはなかったんですよね。去年の12月に『ロミオとジュリエット』をやっているあいだ、制作からは「LUMINE0で何やる?」ってことを常に言われていて、「いや、まだわかんない」みたいな返答をずっとしてたんです。自分のオリジナルの言葉を練るにはもっと時間がかかるんじゃないかと思ってたけど、『ロミジュリ』をやっていくうちに徐々に「やらなきゃな」って気持ちになってきて。これまで「新作楽しいよな」みたいな感じで作り始めたことは一度もなくて、新作を作ってきたのは自分の中で「やらなきゃな」って気持ちが芽生えたタイミングなんですよ。今回LUMINE0でレパートリー作品をやるってことも考えられたはずなんだけど、新作でやりたいと思ったんですよね。


2016年「ロミオとジュリエット」撮影:田中亜紀</FONT size=”1″>

――それで今回、『sheep sleep sharp』を上演することになったわけですね。この作品について、藤田さんはツイッターで「未だに、ぼくにとっての新作だとおもっている『カタチノチガウ』の、すこし先をいく作品を、マームとジプシーとして、このタイミングでつくりたくなりました」と書かれていました。藤田さんのオリジナル作品ということでは、『カタチノチガウ』のあとに『ヒダリメノヒダ』があり、イタリア人と共同制作した『IL MIO TEMPO』があって、京都で滞在制作した『A-S』があるわけですけど、それでも『カタチノチガウ』が「未だに、ぼくにとっての新作」であるというのはなぜですか?

藤田 そういう発言をツイッターですることによって、「私たちとやったのは新作じゃないんだ?」ってことで嫌な気持ちになる人がいるかもしれないなとは思うんだけど、僕の中での新作の定義っていうのはちょっと違うんです。『カタチノチガウ』のエピローグで、“いづみ”は“さとこ”に自分のこどもを委ねるわけですよね。こどもを委ねて死ぬってことは、自分のこどもを捨てるってことでもあるんだけど、そこで“いづみ”は「あなたがこの子の未来になんにもないと判断するのであれば、この子を殺してしまっても構わない」とまで言うわけですよ。あのエピローグはかなり新作だなと思っていて、それまで僕の中のモチーフになかったことだなと思ったんですよね。あのエピローグ以上のシーンを、それ以降も僕は書けてないなと思っているんです。

過去や記憶を繰り返し描くことで手にした「未来」や「ヒカリ」という言葉

――『カタチノチガウ』が最新作だということの意味や、『sheep sleep sharp』で何を更新しようとしているのかを考えるためにも、まずは過去の作品について振り返って話を伺えればと思います。ここまでの変遷を考える上で節目となる作品の一つは『cocoon』だと思うんですね。『cocoon』というのは、今日マチ子さんが沖縄のひめゆり学徒隊に着想を得て描いた作品です。それを藤田さんが演出するという形で2013年に初めて上演されて、『カタチノチガウ』を経て2015年に再演されています。2013年の『cocoon』と2015年の『cocoon』はかなり別の作品に仕上がりましたけど、この2年のあいだに生じた変化というのは大きかったんじゃないかと思うんです。

藤田 そうですね。初演の『cocoon』っていうのは、僕の作品における系譜的に言うと『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりについて。』の影響下にあったと思うんです。僕は『てんとてん』って作品で初めて「ヒカリ」って言葉を使ったり、作品の最後に今の年号を――2013年の上演であれば「目を開けると、2013年だ」っていう台詞を――言わせたりしたんですけど、それは『cocoon』を描くためでもあったんですよね。『てんとてん』という作品でこどもたちを描くってことが『cocoon』においてこどもを描くことにも繋がってたし、『てんとてん』があったからこそ『cocoon』のラストに「ここは2013年だ」っていう台詞を言わせることができたんだと思うんですよね。でも、2015年の『cocoon』はもう『てんとてん』の影響下にはなくて、『カタチノチガウ』の影響下にあったんですよね。初演の『cocoon』と再演の『cocoon』が違うのは、「過去にとって未来はさあ、現在なわけなんだけれど、現在って未来を過去の人たちは想像していたのだろうか」って言葉を加えられたことなんです。僕は『カタチノチガウ』で初めて「未来」って言葉を使ったんだけど、その「未来」っていう言葉を再演の『cocoon』でやっと使えたんですよね。その「未来」って言葉や、「ヒカリ」、「あかり」っていう言葉によって原田郁子さん(初演と再演の『cocoon』で音楽を担当)とやりたい曲も変わって、2015年のときは「あかり from HERE」になったっていうことなんです。「ヒカリ」とか「未来」っていうのはすごくシンプルな言葉だけど、それを言えるようになるまでめっちゃ体力を使ってるんですよ。その言葉の良さがあるってことは人としてわかってたんだけど、それを自分の作品で言えるかどうかっていうのは大きな問題だから、僕の作品はほんとに徐々にしか進んでなくて。「ヒカリ」とか「未来」って言葉に限らず、ポンポン言える言葉なんてないと思ってるけど、その言葉に至るまでどういうプロセスを踏むかってことが重要だと思っていて、2015年の『cocoon』で「未来」って言葉を言えたのは『カタチノチガウ』があったからだと思うんです。


2015年「cocoon」撮影:橋本倫史

――昔、藤田さんは「僕は過去しか描けない作家だと思う」と話していたことがあります。そこから『てんとてん』で「ヒカリ」という言葉を、『カタチノチガウ』で「未来」という言葉を言おうと思ったのはなぜですか?

藤田 今でも「過去しか描けない」と思ってる部分はあって、過去にしか事実はないと思っているんですよね。今っていう時間は事実かどうかわからないんだけど、過去になってしまったものは事実しかないと思うんです。僕は過去とか記憶っていうことを描いてきたわけなんだけど、それを繰り返し繰り返し描いているということは、実は未来のことを思っているんじゃないかっていうふうにどこかのタイミングで思ったんですよね。自分の作品を観てるときに「未来はこうなって欲しくない」ってことのカウンターをやっているんじゃないかって。それは僕の作品を観た人が未来を思えばいいし、ヒカリを見出せばいいって話ではあるんだけど、それをあえて言葉に置き換えるってことはすごく考えたんだと思います。

――2015年の『cocoon』では、「現在というのは過去から見た未来である」ということに言及しただけではなくて、何十年後って未来のことにまで触れていました。そうして過去・現在・未来という時間に対する意識が変化したり、何十年後って規模の時間について考えるようになった背景には、『cocoon』や『カタチノチガウ』だけではなく、蜷川幸雄さんとの作業が大きく影響しているんじゃないかと思うんです。『カタチノチガウ』を執筆し始めた頃に蜷川さんとの作業が始まって、取材を重ね、『蜷の綿 -Nina’s Cotton-』という蜷川さんの半生をモチーフとした作品を書き上げたわけですよね。

藤田 『蜷の綿』は上演することができなかったからまだ新作だと思ってないんだけど、『蜷の綿』は僕にとってあきらかに新作なんです。蜷川さんとの時間が3年間あって、それが僕の時間感覚をあきらかに変えてくれたんですよね。たとえば戦争が起きたのは70年前だっていうことに対して、『cocoon』をやってもやってもわかんないところはあるんだけど、蜷川さんと会っているとそこの時間感覚が現実的になる。蜷川さんと僕はちょうど50歳離れていて、50年後には僕もこれぐらいの身体になっていて、そして作品を作っているかどうか。同業者だからってこともあるかもしれないけど、その定規みたいなものがすごく具体的だったんですよね。50年っていう開きはすごいことだけど、すごくもないんじゃないかって思ったというか。蜷川さんの部屋に行くとレディオヘッドやバトルスのCDがあったりして、蜷川さんの姿を通して自分の未来を想像できたんです。

「誰かのために」ではなく、「自分のために」と言えるかどうか

――この10年ということを振り返ると、2011年に上演された三連作『かえりの合図、待ってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』で岸田國士戯曲賞を受賞したというのはやっぱり大きな節目だったなと思うんですね。というのも、その翌年には「マームと誰かさん」というコラボレーションのシリーズが始まり、藤田さんが自分以外の言葉を扱うようになってきたのがこの5年だと思うんです。

藤田 やっぱり、26歳までは自分の言葉でどうにかしたかったっていうのが強かったんです。周りの皆にも僕の言葉を演じて欲しいと思ってたんだけど、賞っていうのはわかりやすいもので、そこで一回賞をいただいて評価されると、今度は自分の言葉をどう高めていくかっていうことに悩み始めるんですよね。そこで選んだのが、自分の言葉から一回離れるっていうことで。今、ただ僕の流れを話しているだけみたいになってるかもしれないけど、やっぱり若いうちに獲っておいてよかったなと思うんです。あそこで賞をもらえてなければ、まだ過去を描いたかもしれないし、自分の言葉だけの世界にいたかもしれなくて。でも、賞をもらったときに、「僕の言葉ってものは皆見たんじゃないかな」と思ったんですよね。役者さんも観客も、僕の言葉は一回見たんじゃないかと思ったんです。じゃあここから自分は何を欲してもらえる人間になるのかってことを考えたときに、他人の言葉を鏡にしながら自分の言葉をどうやって生かしていくかっていう作業を選んだんだと思う。その作業を始めて5年経って、『ロミジュリ』のときにひと段落した感覚があったんです。『ロミジュリ』をやっているあいだに自分の言葉の量が増えてきたときに、まわりまわって自分の言葉に帰ってこられるんだなと思ったんですよね。


2014年「ΛΛΛ かえりの合図、待ってた食卓、そこ、きっと—–」撮影:橋本倫史

——これまで他の人の言葉を扱うということを通じて、藤田さん自身の言葉が生まれてくるということはこれまでにもありましたよね。さっき話の出た『カタチノチガウ』という作品も、2014年に野田秀樹さんの戯曲『小指の思い出』を上演したことがきっかけになって生まれたところもあるんじゃないかと思うんです。このタイミングで新作をやりたいと思うに至ったのも、去年の年末に『ロミオとジュリエット』をやったことが大きいですよね?

藤田 そうですね。さっきも言ったように、『カタチノチガウ』のときには「こどもたちに託す」とか「こどもたちが未来だ」ってことを言ったわけですよね。つまり、自分はもういないかもしれない未来のことっていうのは自分の手に負えなくて、それは未来を生きるこどもたちが作っていく――その多くの部分にはまだ同意してるんだけど、「それはちょっと、未来ってものを放棄してるかもな」と思ったんです。僕が「すこし先をいく作品をつくりたい」と言っているのもそこで、大きな話を考える以前に、ほんとにお前次第なことって考えられないのってことを自分自身に対して思ったんですよね。すぐに頭の中を膨大にして「何十年先」とかって言葉を使ってきたけど、すべてのことは自分のためなんじゃないのってことを年末年始に思ったんです。『カタチノチガウ』のときは、観にきた人たちのためとか、未来のためとか、こどもたちのためとかってことを少し思っちゃってた部分があったかもしれないけど、結局は自分のためなんじゃないのって思ったんですよね。


2016年(LUMINE0公演)「カタチノチガウ」撮影:橋本倫史

これは蜷川さんの話とも繋がってくるんだけど、蜷川さんが劇場に来るのは自分が来たいからなんだなってこともすごく思ったんですよね。もちろん「若い人に託す」って意識もすごく強い人で、それも格好良い部分ではあったんだけど、極論すると自分のためでしかないと思ったんです。もう死ぬかもしれないみたいな身体で稽古場に来てるところを何回も見ていると、それはもう未来とか教育的配慮とかじゃなくて、自分が来たいから来てるんだなと思ったんですよね。その「自分のため」ってことはすごく大事だなと思ったし、誰かのせいにしている表現は駄目だなと思った部分があるんです。「これは全部自分のためだから」って言えるかどうかって重要だと思っていて、地に足がついたところでやりたいなと思ったんです。「自分がやりたいからこれをやっていて、それは未来のためとかこどもたちのためとかっていう以前に、自分だけのためです」ってことを青柳さんに言って欲しいと思ったんですよね。それが「『カタチノチガウ』のすこし先をいく作品」って言っている大きな部分なんですけど。


2014年「小指の思い出」撮影:篠山紀信

最初から変わらず暗い世界で、言葉のなさを想像する

――2014年の『小指の思い出』を皮切りに、2015年には寺山修司原作の『書を捨てよ町へ出よう』を上演して、昨年末には『ロミオとジュリエット』があったわけですよね。三作とも青柳いづみさんは出演していて、そこで彼女は絞首台に立ち、パチンという音とともに自爆し、ティボルトを殺して自らも毒を飲み命を断つというキャラクターを演じています。藤田さんはオリジナル作品でも死というモチーフを扱うことは多いですけど、死っていうことについて他人の言葉を通じて考えて続けてきたということも、今回の新作に繋がっているんじゃないかと思うんです。

藤田 本当に、何でそんなことをずっと描いているのかわからないんですけどね。これは具体的に語るつもりはないんだけど、地元で起きた出来事というのがあって、そのことについてこないだ初めてネットで検索したんです。そのことに目を背けていたところはあって、自分の記憶の中の話としてしか考えないようにしてたんだけど、今度の新作について考えている最中に初めて検索してみたんです。僕の地元で起こったよくない事件がいくつかあって、検索して出てきたこともあったし、出てこなかったこともあって。ニュースっていうのは事実だけを並べ立てるわけですけど、やっぱり結構きつかったんです。僕は自分の記憶の中で「あの人はああいう人だったよな」ってことを追い続けてたんだけど、ニュースはめっちゃ俯瞰して事実だけが並べられていて、短い記事なのに何時間も読んでたんです。そこで改めて思ったのは、僕はやっぱり、死ぬ前に見た暗さみたいなことをやりたいんだなってことで。暗さっていうのはブラックアウトするとかってことではなくて、この世界って本当に暗かったなってことなんです。僕の知り合いの中にも、「この世界ってどんづまりだな」ってことを思った人が何人もいる。その瞬間みたいなことを、どの作品をやっていても考えるんですよね。

その記事を読んだときにもう一つ思ったのは、2017年現在の社会のことで。去年あたりから明るみに出ていることはあって、これからどうなっていくんだろうって不安も年々急速に増してるとは思うんです。でも、そんなことが起こらなくたって最初から暗かったよなと思うんですよね。本当につらいなとか、本当に暗いなってことを感じてた人が身の回りにいる。その人たちが思っていたことがわかりやすい形で明るみに出るときってあるじゃないですか。震災もそうだし、政治のこともそうだと思うんだけど、それをきっかけに明るみに出ただけで、最初から最後まで世界なんて変わりはなくて、どの時代に生まれるかって偶然性があるだけだと思うんです。僕らの親の世代はあからさまに戦争を経験しないかもしれないけど、僕らの世代は経験するかもしれないとか、そういうレベルの違いがあるだけだと思うんです。どこでそれが明るみに出るかって問題があるだけで、最初から変わりない世界を生きているだけなんじゃないか。そんな世界をただ生きているっていうことを、戦争だとかそういうわかりやすいモチーフを入れずにやれたらなってことを思ってます。

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2015年「書を捨てよ町へ出よう」 撮影:井上佐由紀

――今の話を掘り下げて考えるためにも、もう少し『ロミオとジュリエット』について聞いておきたいと思います。あの作品で印象的だったのは、藤田さんが書き加えた「このことに言葉なんてない」という台詞なんですね。あの一行にすべて集約されているんじゃないかとさえ思ったし、作品全体にも言葉に対する絶望みたいなものを感じたんです。

藤田 やっぱり、「言葉とかじゃないよね」って思うことが年末にあったなと思っていて。言葉を扱ってきたけど、言葉でどうにかできないことって多いなと思ったんですよね。いろんな媒体があって、あいかわらず言葉を発しやすいじゃないですか。そこで皆いろんなことを言葉で形容しようとするけど、言葉がどうとかじゃないなと思ったし、言葉にしてしまった途端にチープになってこぼれてしまう感情がいっぱいあるなと思ったんです。言葉をやってしまっては駄目だっていう気持ちがない人の言葉は聞きたくないなと思ったし、言葉なんてないんだってことが前提にある言葉じゃないと自分は嫌だなと思ったんですよね。

――今度の新作にはすでにプロットが書かれていて、そこには「姉の娘には『言葉がない』」という一文がありました。姉の娘というキャラクターに言葉がないという設定に至ったのは、今の話にあった言葉に対する感覚ともリンクすることなんじゃないかと思うんです。

藤田 まだ言葉がなかった時代というのを誰しも経験しているはずで、そこから言葉を見つけていくんだと思うんですよね。姉の娘をやってもらうのはこの春中学校3年生になる谷田真緒ちゃんで、真緒ちゃんはまだ言葉未満の世界を生きているってことでいいなと思ったんです。まだ言葉っていう世界に生きていない子がひとりいるっていうだけで、他の登場人物はなんかゴチャゴチャ言ってるけど、そもそも言葉がなくたってよかったのかもしれないってことを考えられるんじゃないかって気がするんですよね。それと同時に、演劇における言葉にはすごく制限があるなってことを昔より思うようになったんです。人の前で生身の人間が言える言葉には制限があって、言えないことは結構あるし、言ってしまうとチープになることも多いんですよね。もし紙媒体であれば、紙っていう体力で書きまくってもいい言葉もあると思うから、小説を書きたくなってるところもあるんだけど。とにかく、生身の人間に書き下ろすことができる言葉はすごく限られてるなってことを、『ロミジュリ』をやってるときに思えたんですよね。


2016年「ロミオとジュリエット」撮影:田中亜紀</FONT size=”1″>

——さっき藤田さんは「社会」って言葉を口にしましたよね。こういうインタビューのとき、藤田さんが社会に対して直接言及することはほとんどないですけど、一方で藤田さんは社会で起きている出来事の一つ一つにすごく揺さぶられていますよね。しかも、そこで言葉を持たなかった人に対して常に考えを巡らせているという印象があるんです。

藤田 そうですね。ただ、僕は演劇が社会を反映できるかっていうことについては、できると思ってるけど思ってないところがあるんですよね。社会のある部分を反映することはできるのかもしれないけど、そのある部分の中でも何も言えなかった人や何も思えなかった人しか僕は描けないと思っちゃってるんですよね。『cocoon』に関しても、歴史とか社会とかっていう大きなことじゃなくて、本当に小さいことしか描いたつもりはなくて。もちろん「ひとりひとりの姿を観ることで大きなことを見つめてくれるんじゃないか」ってことはあるんだけど、僕自身が大きなことを言いたくて作品を作ってるわけじゃなくて、本当にキツかった人のことを考えちゃうんです。それは当事者だけがキツいとも思わなくて、何か一つインパクトのあることが起きたとき、端っこに追いやられてる人たちがいると思うんです。その人たちが言葉以前のこととして何を思っていたのか、そのことを想像しちゃうんだと思うんですよね。

――今、「当事者」という言葉もありましたけど、その作業は一体何なんでしょうね。たとえば『てんとてん』という作品には「おれはその身になって語ろうとは思わないし、語る資格はないし、ってか、お前はあるわけ? 語る資格」という台詞も出てきますけど、その身になって語る資格なんてないのに、それでも想像を巡らせ続けているというのは何なんでしょうね。

藤田 何なんだろう。そのことを考えることで、たぶん自分を整理してるんだと思います。何か出来事があったときに、すぐに言葉にしちゃうとどっちか寄りの感じになっちゃいそうなところもあるんだけど、踏みとどまって考えるわけですよ。夜とかに。そのときに、僕の弟のこととかも考えるんです。何か起きたとき、僕はこうやって作品にするっていう発露のしかたをするけど、僕の弟はそんなことをしなくても日常の中でどうにか整理をつけようとしてると思うんです。そこで「僕のほうが考えてる」とは絶対に言えないんですよ。そこで一番駄目な態度は、あたかも「この問題について自分が一番考えてる」っていうことで。そんなこと、全員考えてるんですよ。全員同じレベルで目を背けたり背けなかったりしているだけで、そこには左翼も右翼もなくて、どう行動してるかってだけだと思うんですよね。僕には作品をやるって特権があるだけで、その特権を利用してるだけだから、僕が特別考えてるって思っちゃ駄目だと思ってるんです。

新しい時間感覚を手に入れることで、何百年、何千年という時間に手を伸ばす

――最後に、新作がどんな内容になるのかについて伺っておきたいと思います。藤田さんの創作というのは、稽古初日の段階ではまだテキストが一行もないということも多かったですよね。でも、今回の『sheep sleep sharp』は既にプロットがあるわけですよね?

藤田 そう、今回は最初にプロットがザーッと頭に浮かんできたんですよね。そんなことって今まで一度もなくて。音楽とかでたとえると、これまでのマームは一曲一曲みたいな捉え方をしてた気がするんですよね。たとえばCDアルバムがみたいなことを想像してもらえばたやすいけど、アルバムの中の一曲一曲を成立させていくって考え方で作品を作ってきたんです。アルバム制作をするみたいに、プロローグがあって、チャプター1があって……と頭から一曲ずつ作ってたんですよね。それは大きい舞台をやるときも小さい舞台をやるときも、ここ数年はそのフォーマットでやってきたんです。でも、今回はそうやってチャプター割りで考えていくんじゃなくて、40分っていう長い時間で考えていて。『sheep sleep sharp』っていう作品は、最初の40分はsheepの時間で、次の40分がsleep、最後の40分がsharpになるんだけど、そういう時間感覚にやっとなれたんです。

――それはきっと、創作のスタイルを変えてみたっていうだけの話ではなくて、作品を通して考えたいことのスケールが変わってきたせいもあるんじゃないかと思うんですよね。

藤田 たしかに、見出したいことのスケール感は違ってきてるんですよね。今までのフォーマットに当てはめるってことだと手に負えなくなってきたところがあるというか、何か違う時間感覚を手に入れないと描けないことに着手しようとしてるんだと思います。たとえば全8話のドラマがあったとして、そこにはだらだらしてるシーンもあるんだけど、そのだらだらしたシーンにも何か意味があるんだろうなと思えるようになったのもあるんです。『スター・ウォーズ』だったらエピソード1から3まで時間をかけてようやくアナキン・スカイウォーカーがダース・ベイダーになりましたとか、ちょっと時間の感覚を長く持たせたところで伝わる細かさみたいなことがやりたくなってきて。

――新作の構想について、藤田さんが「ドラマをやりたいと思っている」と言っていたことが印象的だったんですよね。そんなことはこれまで口にしたことはなかったですよね?

藤田 なかったですね。僕は自分の作品のことをドラマだと思ったことがなくて、ライブだと思ってた部分がすごくあるんです。それは音をガンガン流すからとかっていうことではなくて、僕の中で大きかったのは「パフォーマンスとして成立してるかどうか」ってことだったんですよね。だから、これまではストーリーのこととか一度も考えたことがなかったんだけど、今回はストーリーのことばっか考えていて。この作品のことを新作だと思っているのは、一番はそこかもしれないですね。日本の演劇界における自分の言葉の価値っていうのは24歳ぐらいのときからわかっていて、僕を上回る人はいないなと最初から思ってるし、だから賞も獲れたんだと思うけど、自分はドラマやストーリーが書ける人間じゃないと思い続けてたんです。でも、ここ数年、レパートリー作品ってことで過去の作品を再演してみたときに、意外とストーリーとして成立してんじゃんって思うタイミングがあったんですよね。

あと、去年の夏に京都でやった『0123』って作品の存在も結構大きくて。やっぱり、ひと作品で言える限界ってあると思うんです。ただ、『0123』は『0』と『1』と『2』と『3』っていう4つの作品で成り立ってたわけだけど、4つの作品を並べて見せることでそれぞれの作品が繋がって見えてくるというか、輪廻転生してるように見える状態にまで持って行けたんじゃないかと思ったんですよね。そうやって1時間半や2時間といった上演時間を超えた時間感覚を手に入れることができれば、何百年とか何千年って時間を描けるきっかけになる気がするんです。映画だってドラマだって演劇だって、観客は全員上演時間を超えて引きずってると思うんだけど、こうやってシフトしていくと本当に大きいストーリーに挑めると思うんです。人ってものが生まれる前のことかもしれないっていうレベルの根本的なことを、説教くさくない形で描けるような気がするんですよね。今回の新作でそこまで行けるかどうかまったくわからないんだけど、完全に新しい仕組みが始まる気がする。だからまだ「『カタチノチガウ』のすこし先をいく作品」っていう言い方をしたいんだけど、今は本当に大きいスケールのことに挑むための出発点に立っているんだと思います。

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