mum&gypsy

カタチノチガウ

2015115()-118()VACANT
201529()-13()横浜美術館レクチャーホール
2015219()-20()VACANT

▽ パンフレットより

昨夜、書き終えて、月曜日の、今日は祝日らしいから、穏やかな朝である。


去年の秋に、おおきな作品をつくった。おおきな作品というのは、一言ではむつかしいけれど、ぼくとしてはおおきな作品だった。


おおきな作品をつくってみて、そこでしか得ることができない快感もあったし、空間として、時間として、やはり自分はあたらしいリズムとか、さらには、生きるとか死ぬとかいう感触を操作しながら、おおきくてもいろんなことを試すことができるのだと確信した。


しかし同時に、あの作品をつくってしまった代償のようなはね返りも、想像以上におおきかった。あれに至るまでの、ぼくたちの流れ。いろんなサイズで大切にしてきた音。記憶。それを、ある意味で断ち切っていないだろうか。しかもぼくはあの作品を日本に置いて、海外ツアーに出てしまったから、自分の目で、あの作品の最後を見届けることができなかった。はじめて、マームとジプシーはふたつに分かれて活動した。日本でおおきな作品を守るメンバーと、海外であたらしい土地を目指すメンバー。ぼく自身もバラバラのまま、どっちつかずのカラダを引きずって海外へ発った。なんとも形容できない、おおきくて得体の知れない塊のようなものが、重くのしかかったまま。


旅をした。


そう、ぼくらは旅を続けた。


見知らぬ風景のなかを旅していくなかで、おぼつかない意識で。日本に残してきたものをアタマでぐるぐるさせながら。ぽつぽつ綴っていたのが、この作品である。


記憶を扱ってきた、ぼくとして、マームとジプシーとして、この次は。きっと、未来を描くだろう。


未来としての作品には、この三人が出演してほしかった。そしてそれが叶った。


日本って、未来って、そこに生きるコドモって。


やっぱりどうやら、カタチノチガウ、コドモたちが、今日もまた産まれて、未来に放り出されている。


穏やかな朝を、どうか。


2015112 朝。


藤田貴大

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▽ パンフレットより 「カタチノチガウコドモたちの、たよりないミライ」–

去年のイタリアでのツアーで目にした、まるで枯れきった広大な風景。


なにもかもが、生きていないような。生きていることのほうが不自然なのかもしれない、とおもうくらい。眺めていると、そんな気分になる風景だった。


ぼくはいままで、ぼくの記憶のなかで見つめていた風景について。描いてきたようにおもう。しかし記憶の風景に留まっていては手を伸ばせないことがあることを知った。それは去年のことだった。


コドモをのこして、死んでしまったひとがいた。彼女は去年の、夏になる前の、春の終わりに死んでしまったのだけれど。彼女はとにかく、コドモをのこして、死んでしまった。


こんなにも頼りない未来に、コドモをのこして、死んでしまった。


見知らぬ土地の、枯れきった風景が問うてくることと。彼女のことが重なって。


なんとなく書いているうちに。


これは記憶ではない。


記憶では手の伸ばせない。


頼りない未来を。


頼りない未来を、いま。


ぼくは想像しているのだ。と、気がついた。


カタチノチガウ、コドモたちは。そんな未来を。ぼくらがこうしてしまったこんな未来を。行くしかない。


ヒカリをでも、


どうしても、見せたい。


どうしたって、見せたい。


いつもよりも、つよめに想う。


ヒカリを。ヒカリを。ヒカリを。


そんな二月。


まぎれもなく、ここは日本。


2015.2.5


藤田貴大


Children in “different shape” and their undependable future ahead


In Italy last year, I saw a vast landscape of dried and withered trees.


Nothing looked lively there. Feeling overwhelmed, I was wondering if living is rather unnatural. It was the kind of scenery that makes you feel that way.


I think I have been always writing about the landscape I saw and stayed in my memory. But I realized there are some sceneries I can’t reach out the same way. It had happened last year.


There was someone who passed away, leaving her children behind. She died before summer last year. It was the end of spring when she passed away leaving her children.


She left her children in such an undependable future and died.


Her death and what the dried and withered foreign land appealed to me overlapped. I realized while I was writing.


This is not some kind of memory. That’s why I am not able to reach out.


Undependable future.


The undependable future is what I currently imagine.


Children in different shape must live in the future we have already built this way.


Even so I want to show them some light. I really want to do that somehow for them.


I have this desire stronger than ever.


Light. Light. Light.


It is now in February.


Here is indisputably Japan.


2015.2.5


Takahiro Fujita

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▽ パンフレットより 「カラダ、カタチ、コドモ、旅。」–

一月に、青柳いづみのカラダを壊してしまった。


じつは、そのまえにも、吉田聡子も壊れてしまっていた。


この作品は、さんにんのカラダを通して、現在のぼくとして、また世界を把握していく作業だった。


だからこそ、壊れたときに。


その、カラダとしての旅が終わってしまう気がして。あんなに悔しかったことはなかった。ぼくの作品が中断されるなんて、そんな日が来るだなんて想像したこともなかった。


カラダは、旅は、まだまだ当たり前につづくとおもっていたのだ。


中断された翌日、ぼくはあるひとに会いに行った。


あるひととは、蜷川幸雄だ。彼はぼくに会うなり、こう言った。


「いのちは有限なのだと、ここにきてやっとわかったよ」


ぼくも有限、ぼくの作品も有限。そもそも、舞台は一回かぎり。つねに一回かぎりに、ぼくらは生きる。


空間として、やり残したことがある。


VACANTのみなさんに、感謝。


素晴らしい空間をいつも、ありがとうございます。


やり残したこと、きちんと空間として決着すること、でも終わらないこと。上演が終わったあと、ずっとずっとつづいていくこと。たとえ有限でも、ずっと。


カタチノチガウコドモとして、カラダは旅をつづける。


2015.2.18


藤田貴大

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出演

青柳いづみ  川崎ゆり子  吉田聡子

スタッフ

作・演出/藤田貴大  衣装/スズキカユキ (suzuki takayuki)  舞台監督/森山香緒梨
音響/角田里枝  映像/召田実子  照明/荻原綾
照明協力(横浜公演)/ 富山貴之  チラシデザイン/吉田聡子  映像(文字デザイン)/名久井直子
字幕/門田美和  制作/林香菜  Other Member/石井亮介 斎藤章子 Luisa Zuffo


横浜公演アフタートークゲスト
2.11 15:30 名久井直子(ブックデザイナー)
2.11 18:30 穂村弘(歌人)
2.13 16:00 川上未映子(小説家・詩人)

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