劇場は現在という時間の接点である。
ひとびとはここへ足を運び、そしてこの時間が終わると、またここを去る。
劇場にて。ひかりを閉ざして。しかし暗闇にあかりを灯して。なにかをつくっていた。それ自体が叶わなくなって、いくつか季節も過ぎていった。まるで遠い日のことのようにおもうだなんて、想像もしていなかった。
暗闇に目がなれて、見えていなかったものがあったことに気がついた。
窓より外にはあっけらかんとした風景がひろがっていて、それは案外、おもっていたよりもずっと、ひかりに溢れていたということ。
それはそれは眩くて、光景と呼ぶのにふさわしい。
暗闇に目がなれてしまったぼくはなかなか目を開けることができずにいた。目を閉じていても"眩しい"ということはわかった。
ひかりのなかで、立ち尽くしていた。何か月も、そうしていたとおもう。
やがて、その"眩しい"にも目がなれて、ようやく目を開けると、そこは劇場だった。やはりぼくは劇場の、客席に座っていた。
あと数分したら、観客がここへやってくる。今朝はどんな風に目が覚めて、だれと話して。どんなニュースを見て、なにをおもって。ここまで足を運ぶのだろうと想像する。
客席にて。舞台を眺めながら、想像する。
そんな夢をなんども、見た。
夢に見たこれが実現したならば、この言葉もいまごろ客席に座っているだれかに届いているかもしれない。
現在という点が集まって接する時間に、窓をつくりたいとおもった。
窓より外の風景は? 光景は?
やがて時間が終わると、ひとびとはまたはなればなれになる。それぞれの家路へと、線を引く。
そして、できていく立体。そのなかに、つまっている、いくつもの。ことなった、世界。および、ひかりのことを。
ぼくはあらためて「演劇」と呼びたいとおもう。
2020.9.8 藤田貴大
