「ながい一日のはじまりとおわりのその中身にただよう空気」
たとえば、自転車に乗れるようになって、ペダルを漕いで、移動できる距離が広がって、っていう頃、
たとえば、電車の切符が買えるようになって、乗り込んで、移動できる範囲が広がって、っていう頃、
たとえば、飛行機のチケットを手にいれて、どこか遠くの見たことない場所に飛べるようになった頃、
どんどんと広がっていく自分の、規模、が面白くって、どんどんとその、規模、を広げてこうって頃、
比例して、自転車からも、電車からも、飛行機からも、多くのモノを落としてしまった、僕は落下していくそれらに、手をのばすこともせず、声をかけることもせず、ただただそれらを眺めていた、どうしようもなく見過ごして、ここまで広がってきてしまったように思う。
まずはその落下物を拾うこと、それでそれらを繋げて、連続させること、を、たぶん僕は一年前の初演時には意識していたのは、よくわかった、でもそれだけでは足りないこともよくわかった、つまりその落下物を拾って並べることしかしてこなかった、だから今回のこれ、再演、は、その一つ一つを研磨すること、そこから始めた。
そう、言うならば、これはリサイクル(recycle)の作業だ、そのままの形体でもう一度使うリユース(reuse)の作業とは異なっていて、粉砕・溶解・分解の作業から始める、リサイクル、だ。
自転車からも、電車からも、飛行機からも、一度落下したそれら。
手をのばすこともせず、声をかけることもせず、ただただ眺めていたそれら。
一年前に一度、上演というカタチで、外に出して並べてしまった、それら。
それらをリサイクルするのは、やっぱり困難だったよ、火傷もしたし、何かが裂けた感覚もあるし、もう粉砕骨折気味。
しかも、そう、リサイクルしたって、誰かが何かが、不在、なんだ。
誰かが何かが不在の日常、を、これからも過ごすのであろう、誰かが誰なのか、何かがなんなのか、も、思い出すこともできずに。
だから僕はこの作品を、誰かがいなくなった、ながい一日に。ながい一日のはじまりとおわりのその中身にただよう空気、に、捧げようと思う。
それはもう、ある記憶に対して、祈る、ような気持ちでいる、からである。
2011.1.25 藤田貴大