mum&gypsy

Curtain Call インタビュー

2025/05/07

いよいよ本番を目前とした「Curtain Call 」。ライターの橋本倫史さんを聞き手にむかえ、これまで作品をどうつくってきたか、藤田の視点での演劇、「Curtain Call」というモチーフをタイトルとした理由についてお話ししました。

▶︎第1回目インタビューはこちらより

▶︎第2回目インタビューはこちらより

 

――今日は5月6日、いよいよ小屋入りして、明後日には公演初日を迎えます。前回のインタビューは4月10日に収録しましたが、この1ヶ月はどんなふうに過ごしてきたんでしょう?

藤田 前に話したのと重なってしまうかもしれないけど、この1ヶ月はほんとうに稽古したなっていう感じがします。書く時間も久々に結構たくさんあったから、すごく自分と向き合った1ヶ月でしたね。それと、過去の自分の言葉をこんなに見つめ直したのも初めてだったな、って。

 

――過去の自分の言葉を見つめ直す?

藤田 今回の『Curtain Call』では、自分がこれまで書いてきた作品の中にある言葉を、後半どんどんコラージュしてるんです。その上で、今回の作品に向けてどういう言葉を書くかってことを、ずっと考えてましたね。今回は演劇という営みそのものを描くということで、最初は「制作アシスタント」とか「照明オペレーター」とか、それぞれ役柄があるんだけど、後半はそういう演劇の役職はあんまり関係なくなって、僕が思う演劇について――僕がどういうふうに演劇に救われてきたのかってことを、いかに話すかってターンになっていくんですけど、僕は息を吸って吐くように演劇してきただけだから、それについてどう語るかってことを今まで意識してこなかったんですよね。でも、そこを語るってなったときに、過去の作品のテキストと向き合いつつ、今回の作品であらためて何を言いたいのかってことを、稽古場でずっと考えてましたね。

 

――ここ数年の藤田さんの作品は、稽古場でキャストの皆と、一見するとただの雑談にしか思えないような会話をして、そこからテキストが生まれていくこともありましたよね。あるいは、藤田さんが今、違和感をおぼえている事柄について、皆の前で雑談のようにぽつぽつ話して、「この感覚を、今回の物語という制約の中でテキスト化するとしたら、どんなふうに入れられるだろう?」と考えていく、というところもあったかと思うんです。でも、演劇という営みそのものを描くとなると、物語に仮託するわけではないから、言葉のありかたが今までの作品とは違ったわけですね。

藤田 そうなんですよね。たしかに、たとえば沖縄とか伊達とか、そこにシチュエーションがあった上で、「いや、伊達の人って、バーベキューのときにこういう話をするんだよ」って、自分の中での“あるある”みたいなものを入れていくところがあったんですよね。あとは、皆の話を聞いていくなかで、「えっ、石井(亮介)くんって、そんなふうにサザエを獲ってたんだ?」ってところから、それをテキストに加えたり――。でも、今回は皆の話をあんまり反映させてないんですよね。

 

――初回のインタビューでも少し話があったように、ここ数年はその土地の歴史を掘り下げたり、その土地に暮らしている誰かの言葉を聞いたりして、そこから作品を立ち上げることも多かったですよね。そこはもう、今回の新作は明確に違うところですね。

藤田 たとえば『カタチノチガウ』(2014年)とか、『Sheep Sleep Sharp』(2017年)のときって、「誰が何と言おうと、やりたいストーリーがある」っていう感じでつくってたんだけど、今回もそれに近くて、もう言葉は僕の中にしかないって状態になっているから、だから皆の話を聞きながらつくるってことになってないのかもしれないです。制作には事前にインタビューをして、そこから聞いた話とかはあるんだけど、今回は人の話をテキストにするより、僕がどういうふうに演劇を観てきたのかってことになってきたから、結構黙々と稽古してきたんですよね。

2014年 カタチノチガウ
2017年 Sheep Sleep Sharp

――ああでも、演劇という営みを描くにあたって、制作のおふたり、林香菜さんと古閑詩織さんに話を聞く時間を設けたんですね?

藤田 そうですね。その時に「なんで古閑ちゃんがそんなこと言われなきゃいけないの?」っていうような話が、結構出てきたんですよね。演劇っていう現場では、なんでそんなことがまかり通ってるんだろう、演劇ってやっぱマッチョな現場なんじゃないかって感じると、ほんとうに腹立たしくなる。制作に話を聞いた上で、テキストを書いていくと、「あのときあの人は、僕に対してかっこつけてたんだな」ってことがわかってくるというか――。

 

――藤田さんの視点で見えていた誰かの印象が、他の人の視点を介して見るとまるで違ってくる、と。

藤田 そうそう。僕はやっぱり、台本にしないことには、人の感情がわからないんですよ。台本って地図みたいなものだから、「自分がこう言ったときに、相手は何を考えていたのか?」ってことを、文字にしてくれる。たとえば『cocoon』のときでも、資料館に行ったり、資料を見たりして、どれだけほんとうのことを知ったとしても、僕はたぶんわかってないんだと思うんです。でも、それを台本に書くことで、「だとしたら、この子は絶対に、こういうふうに思っていたよね」って、そこでようやくわかることがある。それと同じように、「ああ、あの人って、僕にだけ良い顔を見せてたんだな」とか、「あの人はあのとき、僕に嘘をついてたんだな」とか、「そのこだわりで行けば、あのときあんなことを言われる筋合いはなかったよな」とか――これまで気づいていなかったことが、台本にすることで図解されてく感覚があって。これは別に、誰に怒りをぶつけてるってわけでもないんだけど、台本を書いていると、今までの作品とは違うイライラがありましたね。

 

――この10数年、藤田さんはいろんな作品を描きながら、「作品を通じて、世の中とどう関わりを持てるのか?」ということを考えてきたところがあったように思います。藤田さんが「新作」と呼ぶ作品もそうですし、寺山修司さんや蜷川幸雄さんを描くにあたって、かつて演劇と世の中がどのように呼応していたのかということも考えてきたと思うんですね。今回の『Curtain Call』では、演劇という営みそのものを描くということは、藤田さんが「どのように世の中と関わることができるのか?」という部分でも、これまでと違うところがあるんじゃないかと思ったんです。

藤田 これまで演劇を通じていろんな世界を描いてきたし、外の世界とどう関わるかってことを考えてきたんだけど。おっしゃる通りで、今回はちょっと段階が違うんだろうなと思ってますね。良くも悪くも、演劇自体のことを描かなきゃいけなくなったってことなんだと思います。それはつまり、もうちょっと直接的な言葉を書きたくなったってことだと思うんですよね。だからもう、演劇を通してフィクションを描くっていうことではない段階で、どこまで自分の言葉を観客に届けることができるのかって闘いになってきてる気がしますね。

 

――演劇そのものを描くことで、より直接的な言葉が書ける、と。

藤田 これまでも話してきたように、演劇っていうのは“現在”にダイヤルを合わせるしかない表現だから、いま世界ではどういうことが起こっているか、いま外交がどうなっているか、いま戦争がどうなっているかってことと、今その演劇が行われているってことは、そこに物語がなかったとしてもバッティングしてしまうと思うんです。だからもう、いよいよ「物語って何なんだろう?」ってことを、いまこの時代を見ていると思ってしまうんですよね。これはもう、橋本さんの本からの影響もあるなと思ってるんだけど、『Sheep Sleep Sharp』以降、物語って何なんだろうってことは、僕の中で悩みとしてずっとあって。こんな時代に、なにかを物語るって何なんだろう、って。物語ること自体をやめたいってところに、良くも悪くも来てしまってるところがあるんです。橋本さんが言ってくれているように、フィクションっていうものの強度はあると思っているし、職業的には物語ることを諦めちゃ駄目な気もするんですけど、それを一回取り払ったときに、どうなるのか――。でも、僕の描き方が描き方だから、「演劇という営みそのものを描く」と言っても、どこかデフォルメされた演劇になるんだろうなってことはわかってるんだけど、どこまで自分の言葉に正直になれるか、そこのせめぎ合いがあるんです。だから今回は、とにかく生身でやっていくしかないなと思いながら、稽古を進めてきたんです。

 

――この10年くらいの「新作」には、物語の終盤に劇場が登場することが多かったですよね。こう、そこに劇場があることに、かすかな希望を託している、というか。ただ、そんなふうに象徴的に劇場という場所を登場させるんじゃなくて、演劇そのものを描くとなると、もはや「そこに希望を託す」みたいなことでもないのかなという気がしました。

藤田 ほんとは「演劇そのものを描く」とか言ってないで、その時間を使ってもうちょっと面白い“物語”を描いたほうが世の中的には楽しめるのかもしれないんだけど、最近はもう、自分がやりたいことが演劇なのかもわからなくなってきてるんですよね。自分の表現を突き詰めるってことは一生やっていきたいと思っているけど、自分がやっていることが演劇なのかどうか、もはやわかんなくなってきてる部分もあって。演劇というか、劇場を使っておこなわれている何か、というか。ただ、マームを観にきてくれている人たちって、とてつもなく良いストーリーとか、とてつもなく良い演劇を求めてるのかっていうと、そうでもないんじゃないかって気もしてるんですよね。僕が言葉を届けることができる条件みたいなのが、偶然「演劇という営みそのものを描く」ってことだったんだと思います。

 

――実際ここ最近は、演劇ではなく展示というかたちで作品を発表する機会もありますよね。先日、前橋で開催する展示に先駆けたトークイベントもおこなわれていましたけど、そこでも「カーテンコール」あるいは「カーテン」について言及されていましたよね。これまでの作品でも、内と外を隔てる「窓」や「扉」というモチーフが扱われることはありましたけど、窓や扉に比べると、カーテンは隔てかたが淡いものだな、と思いました。

藤田 カーテンは薄ければ薄いほどいいなって、最近思ってるんですよね。おっしゃる通りで、カーテンは隔てかたが淡くはあるんだけど、最近よく思うのは、“あなた”と“わたし”の間には、やっぱり何かが必要だと思うんです。そこに何かがないと――たとえば家に扉や壁がなくなって、「この家、誰でも入っていいよね?」ってことになるんだとしたら、それは違うんじゃないかと思うんですよね。これは別に、どんどん隔てていけばいいって話でもなければ、どんどん侵略して境界線を作っていけばいいってことではまったくないんだけど、“あなた”と“わたし”の間になにかがないと、同化していってしまって、それがハラスメントみたいなことにも繋がってしまうんだと思うんですよね。人と人との間には、微妙なラインがあるべきだと思うんだけど、それがないもののようにされることで、「何でわかってくれないんだ」って感覚に陥ってしまう気がするんです。

 

――「どうしてあなたは、わたしと同じように感じてくれないんだ!」と。

藤田 そこは普通に、「いや、“わたし”は“あなた”じゃないから、わかんないよ」で良いはずだと思うんですよね。だから、そこには人と人との間にはラインがあるべきだと思うんだけど、とはいえ出来るだけ開いておきたいし、ひかりは取り入れておきたいってところで、「カーテン」っていう言葉に至っているんですよね。あとは、“秘密”みたいなところですね。

 

――“秘密”?

藤田 もしも“あなた”と“わたし”の間にカーテンがなくていいって状態になるんだとしたら、人って壊れちゃうんじゃないかと思ってるんですよね。どれだけ身近な人に対してでも、何かしらの“秘密”を――それは別に、怪しい秘密を持っておいた方がいいってことじゃなくて、自分にしかわからない“秘密”を――持っていていい気がする、というか。演劇っていうのは、そういう誰かの“秘密”を、昨日よりほんのちょっと豊かにする仕事のような気もしてるんです。だから、マームを観たあとは、「どうだった?」って話をあんまり誰かとしてほしくないというか――いや、それは観客ひとりひとりの自由だから、もちろんしたっていいんだけど――公演から半年後ぐらいにその話をしてもらいたいんですよね。

 

――誰かと共有するんじゃなくて、感激を通じて抱いた感覚は、そのひとだけの“秘密”として抱えていてほしい、と。

藤田 カーテンっていうのは、どういう膜をうちと外の間に張っておくかってことだと思うんですよね。だから最近、その言葉をすごく気に入っているんですけど。カーテンっていいものだな、って。

 

――だけど、今回改めて思いましたけど、カーテンコールって不思議な時間ですよね。音楽のコンサートだと、アンコールなしで終わる公演もあるわけですよね。僕はアンコールがないならないでいいと思ってしまうんだけど、観客は「もっと!」とアンコールを求めて拍手をして、それを受けてミュージシャンはステージに戻ってくる。ただ、演劇だと、そこでもう一幕始まるわけではないですもんね。

藤田 そうそう。あれは本当に、何なんですかね?

 

――面白いなと思うのは、観客側からの能動的なアクションがなければ、カーテンコールって存在しないわけですよね。演劇作品自体は――もちろん、チケットを買って、劇場まで運んで、開演時刻までに席に座るってことも、観客側からのアクションとも言えますけど――それ以上に具体的な行動を起こさなくても、演劇は開演する、という。それに比べると、作品が終わったあとに、観客が能動的に拍手をすることで初めて成立する時間だっていうのは、不思議な時間ですね。

藤田 またZAZEN BOYSの話になってしまうけど、3月の野音のとき、アンコールで「永遠少女」をやってくれましたよね。ああいう格好良いことも、僕らはミュージシャンじゃないから出来ないんですよね。演劇でアンコールをやったら、それはそれで面白いのかもしれないけど、呼び出されたところで、やれることはお辞儀しかなくて。なんで何度もお辞儀するんだろうって、ちょっと不思議に思うところもあるんだけど、でもやっぱり、あの時間に観客から何かしらのシグナルが送られてるってことだと思うんですよね。それはちょっと異様な時間だなと思うところもあって、拍手がすごく暴力的に聞こえるときもあるし、しなくてもいい拍手ってものもあるよなって思うんです。『BOAT』のときには、「このことに拍手なんてない」ってテキストを書いたりもしたけど、カーテンコールって、改めて不思議な世界だなと思います。今、こうやって話しているなかで、子役をやっていた頃に、影山先生と一致したことが一回だけあったなって、ふと思い出したんだけど。

 

――一致したっていうのは、拍手に対する考え方が?

藤田 そうそう。なんか、影山先生が「今日の公演は良かった」っていうときは、僕はあんまり良かったと思えてなくて、僕が「今日は良かった」と思ってるときは影山先生が怒ってるみたいなことが多かったんだけど、高校1年か2年のときに、「今の回は良かった」って話を影山先生とできたことがあって。しかも、「終演してすぐに拍手が来なかったのもよかった」って話になったんです。なんかこう、終わってちょっと時間があって、パラパラパラ、ってちょっとずつ拍手が起こったんです。「あの感じも良かったね」って話をしたことを、いま思い出しました。

――明後日が公演初日で、観客がこのLUMINE 0にやってきて、観劇してまた帰っていくわけですよね。そこに今、どんなことを期待していますか?

藤田 そうですね。これまでの作品は、フィクションっていうフィルターの中で語っていたところがあったと思うんです。今回の作品ももちろんフィクションではあるんだけど、結構剥いて剥いて、剥かれた状態で言葉があるなと思っていて。だからもう、ほんとうのことを言っていかないと駄目だなと思っているから、どこまでほんとうに近づけるかっていうことを、役者とやっているところではあるんですけど。ただ、相変わらず思うのは、今この瞬間のこの世界のことを、どこまで僕らがこの劇場でキャッチして、それをその日来てくれた観客に届けられるか――。いや、「観客に」っていうより、観客にだけ聞かせてるって感覚ももうなくて、スタッフやキャストにも聞かせていると思っているから、ここに集まってくれた人たち皆に聞かせる言葉は何なのかっていうことなんですよね。ここまで届いたものを、今この瞬間にどう届けるのか。上演前に言葉をフィックスしたんだとしても、言葉はひとつのデフォルトに過ぎないから、役者がどこまで今日この瞬間のこの状況をキャッチできてるかが試されるなと思うんですよね。

 

――単にテキストを語るだけではなく、今この状況の中で、それをいかに語るか、と。

藤田 こうやって楽屋にいて、準備しているこの時間というのも、今日でしかない準備だと思うんです。今日は今日でしかないし、明日は今日ではないっていうことでしかなくて――それが今、一番思っていることで。たとえば何日か前に、自民党のなんちゃらが、ひめゆり平和祈念資料館についてクソみたいな発言をしましたよね。僕のテキストはすでに書き上がっていたとしても、そのあとにああいう発言があったっていうことは、役者の身体に入っているし、その言葉に対する怒りだってある。そういうことが観客にも伝わったらいいなと思うんです。ただ、あらためて思うのは、観客って意外と“過去”を観にきてるのかもしれないな、って。

 

――“過去”?

藤田 小さい頃に『オペラ座の怪人』を観に行ったとき、一番興奮したのは、「これ、“今”やってるんだな」ってところだったんです。だから、たとえば音楽のライブを観に行っても、「これはもう、“今”でしかない」と思っているんです。でも、演劇を観にくる観客って、ある程度出来上がったものというか、ストーリーを観にきているのかもしれないなと思うんです。

 

――たしかに、たとえば『オペラ座の怪人』みたいに100年以上前に書かれた作品を観にいくときって、多くの観客はそのストーリーを知っていて、それがどんな作品であるかも知った上で観にいくわけですもんね。「過去につくられた作品」として。でも、同時代の演劇であっても、自分が観劇している“今”よりも前の時間――つまり“過去”に完成されたものを観劇している、という意識がどこかにあるかもしれないですね。少なくとも音楽のライブほど、その場のものだと意識は低い気がします。

藤田 だから、僕の仕事は、そことの闘いなんだなと思います。上演より前にフィックスされた、藤田っていう作家が書いた言葉だと思われているかもしれないけど、僕はほんとに直前まで楽屋にいて、言葉を尽くしてるんですよね。これは今回の作品で解決できることじゃなくて、生涯かけて「今、この瞬間しかないんだよ」って言い続けていくんだと思います。だから今、いい意味で不安なんですよね。初日を迎えるのが。この作品自体も、嘘だと思われるんじゃないか、って。もちろん、途端に嘘になってしまいかねないことはわかっているから、いろんな難しさがあるなと思いますね。

 

(構成・インタビュー写真 橋本倫史)


公演詳細はこちらより
※チケットのご予約は、受付を終了しています。当日券については、公演詳細をご覧ください。

「Curtain Call」
作・演出 藤田貴大
出演:青柳いづみ 石井亮介 渋谷采郁
成田亜佑美 長谷川七虹

日程:5月8日(木)-5月11日(日)

会場:LUMINE0
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ケ谷5丁目24-55 NEWoMan Shinjuku 5F

©2018 mum&gypsy