2025/05/31
最後のステージを迎える「Curtain Call 」の楽屋にて。ライターの橋本倫史さんを聞き手にむかえ、一つ一つのシーンやセリフを振り返りながら、 演劇というテーマを通して、時間や空間、どのような形で言葉と向き合ってきたかを話しました。
撮影:橋本倫史――前回のインタビューは、小屋入り直後に収録したものでした。そこから場当たり、ゲネプロを経て、初日、2日目、3日目と公演を重ねて、さきほど4日目のお昼の公演が終わったばかりですね。あとは夜の千秋楽を残すのみですが、小屋入りしてから今日までの日々は、どんなふうに過ごしてきたんですか?
藤田 今回はもう、初日が明けてからもずっと稽古してましたね。ただ、これは皆とも話してるんだけど、今回は初めて、ゲネのあとにテキストに変更を加えなかったんです。ゲネまでに書き上げたテキストを、まったく変更しないままプレミアの土地でやってるのはかなり不思議なことなんだけど、とにかくずっと稽古してました。
――そんなに稽古を重ねてきたのは、なぜ?
藤田 昨日の帰り道に、“あっちゃん”(成田亜佑美)とも話してたんだけど、僕らの中には『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』(2013年)って作品で、ちょっと方程式みたいなものが出来上がってた気がするんです。『Lighthouse』(2021年)以降は――これは『equal』(2024年)とかもそうだけど――その方程式をいかに方程式じゃなくしていくかって作業をしてきたところがあって。あるいは、『Dream a Dream』(2024年)であれば、『あっこのはなし』(2012年、2016年、2017年)で止まっていた自分たちの時間をどうやって前に進めるかってことでやっていたところもあるんだけど、今回の『Curtain Call』はかなり新作だったなと思うんです。自分の中で、「新作」って言葉が難しいものになってきてるところもあるんだけど、今回の作品はかなり新作だったな、って。
――それは、具体的にはどんなところで感じたんでしょう?
藤田 たとえば『equal』とか『Dream a Dream』のときだと、出演しているのはマームとジプシーのレパートリーメンバーだとか、あとは(小泉)まきちゃんだとか、ずっと一緒にやってきたメンバーだったんです。でも今回、(渋谷)采郁と(長谷川)七虹ちゃんと対話しようとしたときに、微妙なズレみたいなのがあったんです。それはまったく彼女たちのせいじゃなくて、ずっと一緒にやってきたメンバーと話すときとは違う言語を持たないと、彼女たちとは話していけないんだろうなってところがあったんです。だから、公演が始まってからも、久々に安定しなかったんですよ。初日、2日目あたりは皆も大変だったと思うんだけど、僕も全然眠れなくて、どういう言葉を持って劇場に行けばいいんだろうって、ずっと悩んでたんです。ただ、3日目のマチネが終わったあたりで、やっとひとつの基準にのったなっていう感じになったんです。
――キャスティングについては、以前のインタビューでも聞かせてもらっていましたけど、あらためて伺いたいのは、今回の作品をマームのレパートリーメンバーとつくるということもありえたとは思うんです。でも、演劇という営みそのものを描くには、何年も一緒にやってきたメンバー以外の誰かとも――それも、演劇を10年、20年、30年と続けてきた同世代の俳優だけじゃなくて、演劇をはじめてまだ10年と経っていない世代とも一緒に描く必要があったのかもしれないな、と。
藤田 今回の公演では、僕、結構ロビーにいるんですよ。そうすると、そういうことを言ってくる人っていうのも、いなくはないですよね。それに、幸福なことに、レパートリーメンバーや“ひび”のメンバーも、公演の手伝いにきてくれるんですよ。その皆っていうのは、僕のキャスティングのテーブルに一回はのっているメンバーでもあるんですけど、今回のメンバーを選んだ時点で、「この作品に関しては、このメンバー以外はない」っていうことで、僕はやるんです。
たしかに、レパートリメンバーだけキャスティングすれば、保証されたクオリティみたいなのがあるのかもしれないけど、そもそもクオリティって何だって話なんですよね。ずっと一緒にやってきたメンバーであれば、言葉を削いでコミュニケーションが取れるのかもしれないけど、それがクオリティだとは思わなくて。これまでだったら何か一言で伝わっていたことを、「一言じゃ駄目なんだ」っていうところで、言葉を尽くそうとする。だから今回は、ゲームもせずに稽古を重ねてきたんです。自分たちの中で当たり前になってしまっていたことを、当たり前にしない、っていう。采郁と七虹ちゃんと話していると、「自分たちでは当たり前みたいになってしまっていたけど、それって結構独特なことをやってしまっていたんだな」って気づかされるんですよね。それは僕だけじゃなくて、“やぎ”(青柳いづみ)や“あっちゃん”も、そこに気づいたと思うんですよね。そういうことって、ここ数年なかったな、って。
――今回の作品は、前のインタビューでも語られていたように、朝の風景から始まりますよね。このプロローグと、途中にあるインターリュードの時間には、俳優がテキストを発語するのではなく、スクリーンにテキストを映し出すという演出がなされています。日本人のキャストとイタリア人のキャストが出演する『Chair /IL POSTO』でも、プロローグではテキストを俳優に発語させるのではなく、スクリーンに字幕として表示するという演出になっていましたけど、今回の作品でもその演出を選んだのは?
藤田 言葉って音だけじゃないんだなっていうのは、海外のキャストとやっているとすごく感じるところがあって。『IL POSTO』のときであれば、なんだろう、観客は基本的に字幕を見て過ごすことになるわけですよね。
(2024年「Chair/IL POSTO」)――日本人のキャストは日本語を、イタリア人のキャストはイタリア語をしゃべるから、両方の言語を理解できる人以外は、日本人の観客であれイタリア人の観客であれ、字幕を見るしかない、という。
藤田 そうそう。海外での制作だと、字幕を見るっていう時間が生まれるんですよね。字幕を見たあと、舞台に目を落とす――その時間の調整みたいなところで、『IL POSTO』のプロローグでは俳優が発語するんじゃなくて、字幕だけでテキストを表示するってことをやり始めたんです。『IL POSTO』のときも、今回と同じく原口(佳子)さんが舞台監督をやってくれてたんだけど、原口さんが「文字になったときに、藤田くんの言葉がやっとわかった感じがした」って言ってくれて、それは僕にとって、結構久々に嬉しい言葉だったんですよね。さっきの話と同じで、僕の中ではもう、当たり前に言葉を書いちゃってたところがあるんだと思うんです。でも、僕が書いている言葉って、文字になんなきゃわからない文体なのかもしれないな、って。だから、テキストを日本語字幕として出していくっていうのは、『IL POSTO』のあとにずっと膨らみ続けていたことだったんです。あとはもうひとつ――これは今回のインタビューで話したいなと思ってたことなんだけど、言葉っていうものが、僕の中ではたどり着いてしまったところがあって。
――「たどり着いてしまった」?
藤田 そんな言い方をすると、言葉を扱う先人たちに失礼になってしまうかもしれないけど、自分の中ではもう「これに尽きる」って言葉を、今回もたらふく見つけてしまった。その先に、何をやっていくかっていうときに、「舞台上に声がないっていうことを描いてみたい」っていうのは、数年前から周囲に話していたんですね。いつになるかわからないけど、『Curtain Call』以降に新作を描くとしたら、発語に対して疑いを持つってことになっていくんじゃないかと思っていて、今回はその序章みたいなイメージもあるんです。あと、これは橋本さんにはすごく伝わる気がするんですけど、人ってあんまりしゃべってないなって思うんですよね。
――そうですね。今回のプロローグとインターリュードが印象的なのは、声に出して発語されるものはないけど、その人物が頭の中に思い浮かべている言葉は字幕として表示されている、というところで。発語はないけど、言葉はそこにある、という。人って――とまで一般化していいのかはわからないですけど、自分の中に言葉が渦巻いているとしても、それを口にする機会ってごく限られてますよね。
藤田 『equal』のプロローグで朝のシーンを描いたときは、俳優が自分の朝を発語して説明するけど、演劇以外だとそんなふうにしゃべることってなくて、日常生活の中だと「しばらくしゃべってねえな」みたいな時間って結構あると思うんです。あと、今回のインターリュードだと、俳優が開演前に劇場の外に出て、新宿の街をひとりでぶらつくわけですけど、あそこで声に出してしゃべってたら、ちょっとヤバいやつですよね。
――ひとりでしゃべりながら歩いてたら、周りの人に避けられそうですね。
藤田 そんなふうにしゃべってない時間のことを、演劇で表現できないのかなってことを考えたんです。たとえば映画だったら、後ろに新宿の風景があって、ここに俳優が立っていたら、なんとなく成立する時間があると思うんですよね。それを演劇でやると、すごいあっけらかんとしてしまいそうなんだけど、どうにか描けるんじゃないかなって希望を抱いていて。特にインターリュードに関しては、今回力を入れたかったところですね。
――インターリュードでは、スクリーンに新宿の路上が映し出されていましたね。この「LUMINE 0」を出てすぐ、新宿三丁目側に向かったところの風景が。
藤田 前のインタビューでも話したように、今回の舞台で使っている映像は、インターリュードまでは画角を決めて、その枠の中に映してるんです。ただ、インターリュードに関しては、スクリーンの全面に新宿の風景を映したいってことで、“まりす”(映像担当の宮田真理子)とミーティングしてたんです。でも、あの新宿の風景も苦戦して――なんか、あそこで三脚立てたら注意されるからってことで、“まりす”が一脚のを持ってきてくれたんだけど、やっぱり揺れるんですよね。結構風が吹き抜けるから。あとはやっぱり、僕がいないときに“まりす”がひとりで撮ってたら、ちょっと絡まれそうになったりもして、新宿を撮るってこんなに大変なんだなとも思ったんだけど、あそこは一番やりたかったところですね。
(「Curtain Call」 撮影:井上佐由紀)――プロローグとインターリュードだけ俳優が発語しないというのは、発語に対する疑いを持つというのとは別の意味でも、印象的だったんです。というのも、プロローグは朝起きてから劇場に向かうまでの時間を描いていて、インターリュードは開演前にちょっと劇場を抜け出す時間が描かれていて――つまり、今回の作品だと、俳優が発語するのは劇場の中にいるシーンだけなんですよね。この『Curtain Call』という作品は、朝起きて、劇場に皆が集まってきて、開演を迎えるまでの時間が描かれていて、そこにははっきりしたストーリーがあるわけではありませんよね。それは明確に意識して、物語とは違う作品を描かれたんだと思うんですけど、今作の上演を終えて、物語、ストーリーに対してはどんなことを考えていますか?
藤田 今日、前回までの3回のインタビューを読み返してきたんですけど、「もっとストーリーを見たいって言われるんじゃないか」っていう危惧は、数ヶ月前の段階でしてたんですよね。「新作っていうからには、新しい物語を見せろよ」っていう声は、初日が明けてからもあるんです。これだけインタビューで語っていても、「演劇っていうのはフィクションなんだから、もっとフィクションを見せてくれ」って言われるんですよね。フィクションを描いているときだって、それを“嘘”だと思ったことは一度もないんだけど、「もっと物語をやってくれよ」とか、あとは「もっと描いてくれ」ってことを言われるんです。でも、今回だって僕は描いているし、それでもそういうふうに言われるんだとしたら、本当に難しいなと思います。いろんなことを考えだして、それで夜眠れないのもあったんですけど。そんなふうに言われるんだとしたら、「今回の作品はこんな内容です」っていうことを、もっと映画並みに広報したほうがよかったのかな、とか――。ただ、ひとつはっきり思っているのは、「演劇という営みを描く」とは言っているけど、いわゆるバックステージものみたいなことではないと思っているんです。
――そうですね。たしかにバックステージに流れる時間は描かれているし、演劇にまつわる“あるある”的に観ることもできるかもしれないけど、それ以上に、藤田さんがきわめて個人的な言葉を書くために、演劇というモチーフが必要だったという印象を受けました。もはや戯曲というより、ほとんど詩のような響きを帯びているな、と。
藤田 もしかしたら、制作的にはもっとバックステージものを望んでいたのかもしれないんだけど、僕は完全にもう、僕のモノローグを語るっていうモードになっていたんですよね。僕にとっては演劇ってこういうもので、こうやって演劇に救われてきたっていうことを書こう、と。そうやって振り返ってみると、「物語っていうものは、ものすごく華奢なものなんだ」っていうことを、ずっとこの20年間考えてきたような気もするんです。「物語っていう檻の中にあるから、言葉が解放されずにいるんだな」っていうことを、肌で感じてたんだと思います。『BOAT』(2018年)とか『CITY』(2019年)の最後の台詞をあらためて読み返したときに、柳楽(優弥)くんの体を、“やぎ”の体を、(宮沢)氷魚の体を、物語って檻から解放させてあげたかったんだろうなと思ったんです。
――たしかに、最後のシーンでは演劇という枠が破れて、ただ剥き出しの時間がそこにある、という感じでしたね。『BOAT』や『CITY』もそうですし、『書を捨てよ町へ出よう』のラストにもそんな印象がありました。
藤田 ただ、シチュエーションと時間っていう軸があることが演劇だと思っているんですけど、その意味では今回の作品も、たとえば「このシーンは開演2時間前の楽屋だ」っていう軸はちゃんと演劇的に読み解いていると思うから、これが演劇じゃないって言われる筋合いはないなと思います。ただ、シチュエーションと時間っていう檻を自分がつくってしまったことで、ほんとはもっと輝くはずだった言葉がそうならなかったっていうことが、なんとなく、自分がこれまで書いてきたテキストを読み返したときにあったんですよね。それを解放していくっていうのが、僕なりの現在――後半の展開だったんです。
――今作の中には、「ノイズ」という言葉が何回も登場しています。まずは劇場内に生じている原因不明の「ノイズ」を取り除こうとする――というところから始まって、「今朝――そう、今朝だって――わたしは、町じゅうのノイズをかき分けながら――/劇場まで、やっとのことで――歩いてきた――」という言葉が語られています。この場面だけ切り取れば、ノイズというのはネガティブなものに見做されてしまいそうですけど、さっきから話しているインターリュードにおいては「雑踏に、耳を澄ませる――ひとの匂いがする」というテキストがスクリーンに表示されて、「ノイズ」という言葉の響きが変容して、そのあとのチャプター5に至ると、「だれかの声に耳を澄ますと――そのひとの日々の匂いがする。/その、だれかは――わたしやあなたのすぐ隣りにいる」と語られています。この、街の雑踏を、そこにある「ノイズ」をどう受け止めるのかということが、ひとつ大きなポイントになっているのかな、という気がしたんです。この『Curtain Call』という作品に登場する人たちは、ひとつひとつの「ノイズ」にかなりのエネルギーを注いで耳を傾けている。そんな作品を上演することで、今この社会に生きているひとりひとりが、「ノイズ」を単なる「ノイズ」として聞き流すのではなく、そこに耳を傾けてくれるようになることに、藤田さんはかすかな期待を寄せているのかな、と。
藤田 ノイズっていう言葉は、一緒にミュージカルをつくっているときに、大友(良英)さんからよく聞いた言葉だったんです。「ノイズっていうことが、あたかも悪いことのように言われるけど、ノイズがなければ僕らの存在ってなくなっちゃうんじゃないか」って。それは「不要不急」みたいな言葉とも繋がってくるんだけど、「最低限の衣食住以外のことはやめてください」って言われたことは、いろんな意味でかなり潔癖な言葉だったなと思うんだけど、僕はちょっと、わかんなくなっちゃった部分があるんですよね。
――「わかんなくなっちゃった」と言うと?
藤田 人間なんて基本、バグを起こしてると思うんですよ。刺激を求めて酒を飲んだり、なんだり――それは人間が「バグ」を起こしているってことなのかなとも思うんだけど、それが「バグ」なのであれば、一体何なんだろうなって思うんですよね。「それが人間なんじゃないかな?」って。たしかに、劇場の中ではノイズを消そうと頑張っているんだけど、人って普段から「ノイズ」にまみれているものなんじゃないかと思うんですよね。だから、劇場内のノイズを探しているシーン――あのチャプター2で「ノイズ」について語っているシーンは、すごく苦労して描いたんですよ。でも、結構そこで語ったテキストに尽きるなと思ってるんですよね。作品の終盤に“やぎ”がいろんなことを語ってるけど、それは勝手にそういうふうになっているわけではなくて、チャプター1、チャプター2、チャプター3と、彼女ら/彼らが語っている流れがあるんです。だからもう、語るべきことは、ほとんど作品の前半で語ってるんですよ。そこまでのシーンで語っている流れがあった上で、“やぎ”が最後に語っている言葉はあるんだけど、それはもう、ほとんど作品の前半で語っていることなんですよね。ほとんど前半で語っていることを、“あっちゃん”と“やぎ”が終盤で言い方を変えて語っている、っていう。その構造にも、初日が明けたあとで気づいたんです。それを考えるとやっぱり、前半のシーンが良くないと、後半に“やぎ”が勝手に一人芝居やってる感じになっちゃうんだろうなっていうのが、初日明けてからの葛藤でしたね。
――今回の作品では、「受信」という言葉も強い響きを持っているなと感じました。『Curtain Call』に登場する人たちは、そこにある微かな「ノイズ」も含めて、それを受信しようと、意識を研ぎ澄ませているわけですよね。
藤田 たぶんきっと、稽古の期間を通じて、ずっとその言葉を精査し続けた気がします。「音が聴こえてきた」とか、「誰かに呼ばれてきた」とか、「ここまで届いた」とか――これに関して、劇中で一回も同じ言葉を使ってないんですよね。今回の作品だと、皆、何かしらの音を聴いたり、何かを察知したりしてるんですよ。ここにいるなりに、何かを感じ取ろうとしている。そこで何か違う物語を期待した観客もいたかもしれないけど、僕の中ではそれって変な話じゃなくて――たとえばここでケータイを見てたら、「誰々が発言を撤回した」っていうニュースが流れてきたりする。今日も今日だって、落ち着かない状態で開演という時間を迎えて、無機質に開演するわけですよね。それがすごく面白いなと思ってるんですよね。それで終演を迎えて、またケータイを開くと、また違う世の中になっている可能性だってある。それこそ『cocoon』の場当たり中に、安倍総理が銃撃されたっていうニュースが飛び込んできたように、この1時間40分を経たあとに、世の中が変わっている可能性だってある。それってかなりエキサイティングだなと思うし、だから演劇って辞められないんだなって思うんですよね。ちょっと余談ですけど、昨日(原田)郁子さんが観にきてくれたんです。それで今朝、“やぎ”とも話してたんだけど、久しぶりに沖縄でなんかやれないかなって思い始めてるんですよね。『cocoon』以降、沖縄とどう関わることができるのか、自分は関わる価値のある人間なのかって自問自答があったんだけど、この4日間でいろんなニュースを聞いていたってこともあるし、郁子さんの声を聴き続けているっていうのもあるんだけど(※『curtain call』の劇中には原田郁子さんの「青い闇をまっさかさまにおちてゆく流れ星を知っている」が、カーテンコールではクラムボンの「あかり from HERE」が使用されている)、久々に行って、なんかやろうかなって思ってるんですよね。これはそういうたとえ話として言ってるんだけど、そういうことだってこの4日間に起こるわけですよね。
(2022年「cocoon」 撮影:岡本尚文)――これは2回目に公演を観たときに、あらためて思ったことなんですけど、この作品の中には演劇に関わるいろんなセクションの人が登場して、劇場までお弁当を運んでくる人まで出てくるのに、演出家・劇作家がいないですよね。藤田さんの言葉は今回の作品全体に遍在しているとはいえ、劇場で返し稽古をするシーンにも演出かは不在で、俳優だけでやっているのが印象的だな、と。
藤田 これは最初からプランがぶれてないところなんですけど、「演出家はいなくていいんじゃないかな?」ってことは最初から話してたんです。あと、今回は配役表を配ってないから、観客にどう観られているかわからないけど、この作品に出てくるテクニカルスタッフは皆、「照明オペレーター」とか「制作アシスタント」なんです。だから、演出家だけじゃなくて、照明プランナーとかプロデューサーとか、チーフクラスの人が出てこないんですよね。だから、テクニカルスタッフを含めて、全員「アクター」なんです。
稽古しながら、色々話したんですよ。「初日が明けたら、いなくなるタイプの演出家なのかな?」とか、「初日が明けたら、オペレーターに任せて去るタイプの照明家なのかな?」とか。マームの現場だと、そういうことって起こらないんだけど、実際に手を動かしてやらなきゃいけない人たちだけが取り残されてる状況を描きたかったんです。ただ、作品の中にはその存在が描かれてなくても、この表現自体は僕がつくっているものだし、この照明をつくっている南(香織)さんがいるわけですよね。物語上は不在でも、実際にはそれをつくっているプランナーがいるっていうことは、なんとなく伝わると思うんです。もしも今回の作品に「メタ」なところがあるとしたら、そこなんじゃないかっていうことは思いますね。
(「Curtain Call」 撮影:井上佐由紀)――すぐにこういう捉え方をするのは自分の悪い癖かもしれないなとも思うんですけど、俳優とテクニカルスタッフだけで返し稽古をするシーンが印象的だったのは、「こういうふうに社会がまわっていけば、もっと世の中が変わるんじゃないか」という原型みたいなものを感じ取ったからなんですよね。その現場に居合わせているのは、プランナーではなくアクターだけだとしても、そこで「上からこう言われてるんで」っていう態度で済ませるんじゃなくて、「どうすればこのシーンがもっとうまく行くのか?」ってことを、その場にいる人同士が――若干トゲのある言い方があったりはしますけど――言葉を尽くして目指そうとする。それはすごく理想的な社会かもしれないなと思ったんですよね。
藤田 ああ、それは意識してなかったけど、シンプルに嬉しいですね。それで言うと、たとえば照明家さんも、現場によっては役者さんと対話ができないらしいんです。
――対話ができない……?
藤田 役者さんと対話するには、制作を介してその現場にはいない演出家に連絡してもらって、その演出家から役者に伝えてもらう必要がある――っていう現場もあるらしいんですよね。今回の作品でも、そういうテキストも元々はあったんです。そこは結局削ったんですけど、現場によってはすぐ隣の部屋にいるのにしゃべれないってこともあるらしくて。でも、たしかに、「言えばいいじゃん」って思いますよね。そうやって横並びになっていないところが、この業界のおかしなところだと思うから。
――この作品について伺っておきたいことはいくつもあるんですけど、そのひとつは戦争についてです。今回の作品のチャプター4において、舞台監督が語り出す戦争の記憶というのは、実際には藤田さんが伊達で耳にした話なんですよね?
藤田 そうですね。前の家の隣に住んでいたしげるさんって人が、チャプター5で語っている通り、船乗りだったんです。『equal』に向けて伊達に帰ったときに、(制作の)古閑ちゃんと一緒に話を聞き取りにいって、2時間ぐらいインタビューしたなかで聞き出せたことのひとつがあの話だったんです。
(「Curtain Call」 撮影:井上佐由紀)――しげるさんがその当時乗っていたコンテナ船は、神戸で荷物を積み込んで、釜山・香港・シンガポール・ムンバイ・オマーンに寄港して、ホルムズ海峡を通って、ドバイ・ドーハ・バーレーン・クウェートと移動し、最後はサウジアラビアのジェッダまで行って折り返してくる船だった、と。この航路を4隻のコンテナ船でローテーションしているなかで、釜山より少し北にある蔚山という港のドックでメンテナンスしていたときに、別の船が船底に傷を負ったということでローテーションが入れ替わった、と。そこでドバイに向かっているときに、しげるさんの前を進んでいた船がロケット弾で攻撃されてしまった。ローテーションが入れ替わらなければ、その位置を進んでいたのはしげるさんの船だったはず――という話でしたよね。それが1985年、イラン・イラク戦争の最中の出来事だった、と。
藤田 そうそう。しげるさんの人生にはほんとうにいろんなことが巻き起こっていて、イラン・イラク戦争に巻き込まれただけじゃなくて、海賊に襲われたこともあるらしいんです。ちょっと、橋本さんにはしげるさんから聞き取ったテキストを全文送りたいくらいだけど、“花嫁移民”の話もあったんです。写真だけでお見合い結婚させられた人たちを、ブラジルまで船で連れて行って、河口のところで小舟に乗り換えて、その“花嫁”たちが運ばれていく――それがしげるさんの最初の航海だったらしいんですけど、そうやって聞き取った膨大なテキストがあったんだけど、なんか作品に使えずにいたんです。『equal』でも、『Dream a Dream』でも、しげるさんのテキストをどこかで使いたいなと思いながらも、なんか使えなくて。そんなふうに、僕の中にストックしているエピソードはいっぱいあるんだけど、このあいだまた伊達に帰って、しげるさんをうちに呼んで、一緒に飲みながら、そのときのことをまた聞かせてもらったんです。検索してもほとんど記事が出てこないんですけど、ドバイに向かっている途中にコンテナ船が攻撃されて、ナンバー1オイラー(操機長)が亡くなったっていう事件だったんですけど、蔚山のドックでローテーションを交換していなければ、しげるさんの船がやられていたかもしれない、って。
――そのエピソードが語られる場面は、開演1時間前の楽屋ですよね。俳優がひとりだけしかいない楽屋にやってきた舞台監督が、ウィンドサーフィンの話に触発されるように、船乗りだった父親の話を始める。このチャプター4には「舞台監督のとても個人的なわりと長いはなし」というサブタイトルがつけられていますけど、あの場面で戦争の記憶にまつわる長いモノローグが差し込まれることを、やや唐突に感じる観客もいるかもしれないなと思うんですよね。『equal』のときも、作品の後半に、藤田さんの実家からほど近い場所に刻まれている戦争の記憶を掘り起こしていく時間がありましたけど、「演劇という営みそのものを描く」という今回の作品において、ややもすると唐突にも感じられる形で、戦争の記憶を描こうと思ったのはなぜでしょう?
藤田 それに関して言うと、橋本さんがこないだ言ってくれたように、唐突であることの何が悪いのかわからない部分があるんですよね。「じゃあ、唐突じゃない入れ方って何?」とも思うというか。そういう話って、ふいに訪れるように聞いたりするじゃないですか。こないだも、池袋にある「ふくろ」で飲んだとき、かなり唐突に徳川家の話を聞くことになりましたよね。「なんとか寺は、徳川家のなんちゃらだから」って話を、いきなり40分ぐらい聞かされるっていう。
――そうですね。どんな土地であっても、少し地層を掘り起こせば戦争の記憶が刻まれていて、そこに耳を傾けようとすれば、すぐそこに戦争の記憶が横たわっている、というのはあるんでしょうね。
藤田 あと、これは今回の作品もそうだし、『equal』もそうなんですけど、そこははっきりと村上春樹さんに影響を受けているんですよ。村上春樹さんの小説でも、いきなり戦争の話が始まったりするけど、僕はそこにリアリティがある気がしてるんですよね。その唐突さっていうのは、小説っていう表現の中にもあるし、ドキュメントの世界でもあると思うんですよね。たとえばNHKの『ドキュメント72時間』でも、いきなり何かの話が始まったりすることはありますよね。そうやって何かの話が唐突に始まったりするのが街って場所だと思うんだけど、なんで演劇や戯曲ではその唐突さが許されないんだろうっていうことが、まずひとつあるんです。その上で、僕は今回、あれが唐突だとは思ってない部分があるんですよね。今回の作品では、ずーっと海の話をしてるんですよ。いろんなところで海の話が出てきて、たとえば「海沿いの町出身だから、わたし」ってテキストが出てくると、この作品を海外で上演すると、「この作品で描かれている国には、海があるんだな」ってことで観られると思うんです。だから、この作品が翻訳されて、字幕を通じてテキストに触れていくと、意外と唐突に感じないんじゃないかって気がするんですよね。「海」っていう言葉を文字としてやたらと目にしたあとに、あのシーンでついに海に出るわけだから。今回の作品では、海に出るっていうのが大切なことだった気がするんですよね。チャプター5の最後に、“やぎ”が「海を越えたら――出ていける。そうおもって――ずーっと水平線を見つめていた」って語っているように、この海を出れたら、この町を出ていけるっていう感覚が――。しげるさんのこと、もうちょっと橋本さんには語りたいなと思うんだけど、やっぱりすごい人生なんですよ。僕なんかの人生より、よっぽどすごいなって、ほんとに思うんです。
――しげるさんも伊達出身なんでしたっけ?
藤田 そうなんです。伊達出身のしげるさんが、中学を卒業したあと、小樽にある船乗りを育成する学校へ行って、最初は船体にペンキを塗るというところから――それを伊達出身の人がやってたんだっていうことに、勝手な話だけど、自分を重ねてる部分があるんです。あんな小さい町から出て行って、僕は僕で海外でも仕事をするようになったけど、しげるさんはしげるさんであの頃そういう生活をしてたっていうことに、ちょっと重ねている部分もあって、伊達に帰ったときの一番の飲み友達って感じなんですよね。そこをもうちょっと器用に伝えられるようになればいいのかもしれないけど、ストーリー的にも海より先の話をしたくなったっていう、ただそれだけなんですけど。
(2024年「equal」 撮影:細野晋司)――『equal』で語られる戦争の記憶は、1945年のものでした。日本で「戦争の記憶」となると、どうしても1945年に終わりを迎えた戦争が真っ先に思い浮かぶところがありますけど、今回は1985年、偶然にもというのか、藤田さんが生まれた年の出来事ですよね。ごく当たり前の話ですけど、戦争っていうのは1945年に終わったあの戦争だけではなくて、世界ではずっと戦争が起こり続けている。藤田さんが初めて海外で上演するためにつくった『てんとてん〜』には、9.11のことが語られるシーンがありましたけど、今後海外での上演を予定しているこの『Curtain Call』にも、第二次世界大戦とは別の戦争について語られているんだなってことを、あらためて考えたんです。しかもその作品の中には、さきほど話したコンテナ船の航路について語られていて、まさに海で繋がっていることが語られているわけですよね。イタリアとの共同制作だった『IL MIO TEMPO』と『IL POSTO』や、寺山修司原作の『書を捨てよ町へ出よう』でも海外公演を行ったことはありますけど、藤田さんが日本でつくって海外に持って行ったオリジナル作品に絞ると、2013年初演の『てんとてん〜』と、2014年初演の『カタチノチガウ』2作ですよね。それから10年以上経って、日本で制作したオリジナル作品を海外に持っていくことについて、今どんなことを考えていますか?
藤田 そこはほんとうに、この作品で一番大切なところっていう気がします。12年前にイタリアに行ったときは、とにかく「てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。」っていうタイトルを持っていこうってことを、まず考えたんです。ストーリーというよりも、あのタイトルを思いついたことが、自分にとっては海外に渡るための手段だと思っていたんですよね。でも、あれからいろんな土地で公演を重ねるなかで、海外といってもいろいろあるよなってことも知ったし、ひとくちに「海外」と言っても、じゃあどこに持って行きたいのかってことも、この作品ではずっと考えていきたいなと思っているんです。今は漠然と、アジアに持って行きたいなってことを考えてるんですよね。いや、もちろん機会があれば欧米に持って行ってもいいんだけど、今回のテキストを書き終えたとき、アジア圏に持って行きたいと思ったんです。日本からの航路で言うと、韓国から始まって、サウジアラビアのジェッダまで、海で繋がっている。それに、これはいつも思うんだけど、遠いと言えばもちろん遠いんだけど、意外と近いと思うんです。それなのに、なんで「近い」っていう感覚が僕らの中にないんだろう、っていうことも考えるんですよね。思ってるより全然近いんですよ。今回の台詞じゃないけど、「わたしやあなたのすぐ隣りにいる」。それを劇場に来てくれる何百人かに見せたいなっていう気持ちが膨らんでますね。それに向けて、この公演が終わったら、翻訳作業を進めていくつもりです。
――これまで海外に作品を持っていくときは、かなり慌ただしく翻訳作業を進めていくことが多かったですよね。
藤田 そうですね。でも、今回は翻訳ってことについて、時間をかけて考えているんです。日本語でテキストを書いている段階でも、そこはすごく意識していて、たとえば「海外で上演するときに、枯山水って言って、誰がわかるんだろう?」とかってことも、もちろん考えたんですよ。
――劇中でヘアメイクさんが語る台詞ですね。演劇というのは定点観測で、上演中観客は同じアングルで舞台を鑑賞し続ける、それは枯山水を観ることとも似ていて、季節が変わったり、観ている側の心境が変わったりすると、違うところを見ていたりする――と。
藤田 それで言うと、今回の作品では、意外と日本的なものを並べてもいるんです。僕、“和”って好きじゃないんだけど――。
――前にもその話をされてましたよね。瓦屋根の建物が日本的だとされるけど、北海道だと瓦屋根の建物なんかないから、「日本的」とされるものに違和感がある、という。
藤田 そうそう。枯山水とか、ドヤ顔で話すことじゃないんだけど、あえてテキストに入れてみたんです。あと、『この道』とかも、あえて入れたんですよね。
(2024年「equal」 撮影:細野晋司)――チャプター5では、楽屋でひとりきりでいる青柳さんが、童謡の『この道』の弾き語りを練習する場面がありましたね。その歌声を聴いた“照明オペレーター”が、「やっぱり、すこし不思議だなあ」と語る。その歌詞には「白い時計台」が――つまり札幌の風景が登場するけれど、一方では「お母さまと馬車で行ったよ」という歌詞も出てくる。北原白秋は熊本出身だから、その風景はどこを歌っているのか、ちょっと不思議だ、と。
藤田 あのシーンとかも、海外でそんな話をしたところで、「SAPPORO……? クKUMAMOTO……?」っていうふうに観客はなるしかなるんじゃないかってことも考えるんだけど、そのあたりも含めて、時間をかけて考えていきたいなと思うんですよね。『Curtain Call』は12月で横浜で再演するんですけど、そこでは英語字幕とともに上演したいと思っているので、そこまで時間をかけて話し合いたいなと思ってます。
――さきほど話にあったように、今回の作品の当日パンフレットには、いわゆる配役表が書かれていませんでしたよね。より正確に言えば、この出演者が常に「制作アシスタント」を演じて、この出演者が常に「照明オペレーター」を演じる、ということではなく、出演者が代わる代わる「制作アシスタント」を演じたりしてました。その演出は、いろんな見方ができるなと思ったんです。ひとつには、マームとジプシーという集団は「劇団」ではなくて、俳優もスタッフも作品ごとに入れ替わっていくわけで、それを表しているものとして観ることもできる。あるいは、観客からすると、ひとつの役をいろんな俳優が代わる代わる演じていく様は、演出としてシンプルに面白いというのもある。でも、それだけじゃなくて、ひとつの役をいろんな人間が入れ替わるように演じていく姿というのは、しげるさんの話のあとに語られる、そこで死んでいたのは「わたしだったかもしれない」けれど、「でも、偶然――わたしではなかった」という言葉と響き合っているものだと思うんです。「あの地下鉄に乗っていたのは――あの飛行機に乗っていたのは――」「わたしだったかもしれない。でも、偶然――わたしではなかった」。同じ時代を生きている誰かに対して、どうすればそういう想像力を持ちうるのか。物語を鑑賞しているときは、ほとんどの観客がそこに登場する人物に意識を向けているけれど、普段の暮らしでどこまでそれが可能なのか。今回の作品でも語られている、「だれかの声に耳を澄ますと――そのひとの日々の匂いがする」「その、だれかは――わたしやあなたのすぐ隣りにいる」という言葉を聴いていると、そういうことを考えさせられるんです。
藤田 あの演出は、今回の作品の中でも稽古が一番大変なところだったんですよね。「そことそこ、同じ俳優が“制作アシスタント”を演じたほうが、段取り的にも絶対楽だよね」って場面はいくつもあったんだけど、今回の作品では、俳優にできるだけ多くの人を演じさせる必要があるって思ってたんです。なんか、これは台詞にある通りなんですけど――これ、初めて話すことかもしれないけど――自分はやっぱり役者がやりたかったっていう気持ちは、結構本気であるんですよ。あの町の人たちは、「たかくんは役者になるんだ」と思って送り出してくれたんだと思うし。でも、役者はやめることになるんだけど、それでもなんか演劇から離れられないよなっていうのは、劣等感なんですよね。劣等感を抱えながら演劇を続けるとして、僕のポジションって演劇の中には何があるのかな、って。いろんな役をやらせたかったのもそれと繋がっていて、もしかしたら“やぎ”だって役者じゃなかったかもしれないし、“あっちゃん”だって制作だったかもしれない。だけど、そうだとしても、演劇に関わることにはしがみついてきた人たちなんだよねっていうところは、やってみたかったんです。だから、今回の作品では、観客は結構な数の人物を観てるんですよ。「これはわたしだったかもしれない」というフックになるためにも、皆にいろんな人を演じて欲しいなと思ったんですよね。
――今の話ともすごく重なるところとして、今回の作品に登場する“制作アシスタント”は、藤田さんと同じように海沿いの町出身で、10歳のときから地元の市民劇団みたいなところで子役をやってきて、20歳で役者をやめたんだけど、そのときに「演劇はやめたくないなあ」と思って、今も演劇に携わっているという台詞がありましたよね。それを受けて、青柳いづみさんが演じる“俳優①”は、こう語ります。
演劇――やめるとか、やめないとか――やめたいとか、やめたくないとか――
そういうんじゃないんだよなあ、もはや。わたし――
なにか食べるみたいに――なにか着るみたいに――夜がきたら眠くなるように――
息を吸って、そして吐くように――演劇――やってきたんだよな。
観客は、きょうもまた――今回の作品のことを――「こういう、嘘――」
だとおもって、観るのかもしれないけど――わたし――嘘だとおもったこと。
いちどもないからな。今回もほんとうのこと言うしね――
――これはすごく強いテキストだなと思ったんですけど、その強さに圧倒されるのと同時に、その言葉の語られかたにも圧倒されたんです。たとえば、『てんとてん〜』で初めて海外公演に出た頃だと、いろんなシーンを積み重ねて行って、そこに音楽やテンションも掛け合わさったところで、言葉にこもっている感情を観客に届けようとしていたように思うんですね。それから数年が経って、今回のインタビューの序盤で触れた『BOAT』や『CITY』であれば、そこまで描いてきた物語の膜がバンッと破れて、物語という檻から解放された状態で決定的な言葉を観客に手渡そうとしていたと思うんです。その前段には、物語という檻が消えるインパクトがあったと思うんですけど、今回の作品ではそういうピークのような時間、決定的な瞬間のようなものもあえてつくらないまま、その背景には特に音もない状態で、青柳さんが上に引用した台詞を語っている。そこに圧倒されたんです。それは、エピローグで下の台詞が語られる場面にも共通して言えることだと思うんですよね。
わたしの声を聞いて――秘密を膨らませてよ――
今回も、ほんとうのこと言う――
わたしはわたしを言葉にして、叫ぶよ。「生きるよー!」
――このテキストが、「強い言葉で観客を刺す」といったふうに語られるのではなかったというところに、圧倒されたんですよね。冒頭でも話しましたけど、どんなふうに言葉を舞台上に置くのかということについて、藤田さんは今、どんなことを考えていますか?
藤田 そうですね。それが一番難しいんですけど、言葉っていろんな形になりますよね。「誰々の何かが変わって欲しい」と思って使われる言葉もあれば、もしかしたら「誰かを傷つけたい」と思って言葉を使う人もいるかもしれないし、言葉というのは人間にとってすごくプリミティヴなツールだと思うんです。だから、言葉がどういうふうに届いて欲しいかなんてことは、僕なんかよりもずっと、皆が考えていることなのかもしれないけど、「最後にはやっぱり、自分の言葉は自分のためにあるんだよな」と思ったんです。それを表現しようとしたら、自分のためにあった言葉を、観客の皆さんが偶然聴いているっていう状態をつくるしかないよなと思って、思い切って書いたんですよね。それはもう、あの頃の自分のためでもあるし、表現というものに身を置いてきた自分のためでもあるんだけど。とにかくもう、「自分のためではない言葉は書かないようにする」っていうことで、最後はもう、いろんなところへのサービス精神とかはなしにして、自分のために言葉を書いてました。
(構成・テキスト 橋本倫史)

公演情報はこちらより。 ※公演は終了しました。
「Curtain Call」
公演期間:2025年5月8日(木)-5月11日(日)
会場:LUMINE0
作・演出 藤田貴大
出演
青柳いづみ 石井亮介 渋谷采郁
成田亜佑美 長谷川七虹
スタッフ
舞台監督 原口佳子
照明 南香織
映像 宮田真理子
音響 池田野歩
衣装 遠藤リカ
ヘアメイク 大宝みゆき
ヴォイス/フィジカルディレクター 石ケ森光政 石ケ森絵里
照明オペレーター 久津美太一
音響補佐 栗原カオス
衣装アシスタント Shuri Kubo
舞台監督助手 船津健太
宣伝美術 名久井直子
宣伝写真 井上佐由紀
ティザー動画 川崎ゆり子
パンフレットデザイン 六月 青柳いづみ
衣装協力
Chihiro
Hasunuma
SPOLOGUM
Mizuho Saito
YUKI FUJISAWA
BOND
DORIAN GRAY
ANREALAGE
suzuki Takayuki
swllow
malamute
trippen
協力 急な坂スタジオ
主催・企画制作 合同会社マームとジプシー