2026/04/10
ばあちゃんが亡くなって、そこで皆気づいたんだけど、ばあちゃんは三女だった、と。家族みんな、ばあちゃんは次女だって思ってたんだよ。山のおばさんが一番上で、その間に7人いて、一番下がばあちゃん――その9人きょうだいだと思ってたんだけど、もうひとりいたということになる。そして、きょうだいは11人だった、ばあちゃんは一番下ではない、という話も出てきて、こんな曖昧なことってあるのかなと思えてきた。そのこと、ばあちゃんは知ってたのかな。
なんか――じいちゃんが亡くなったときとも違くて、こう、時間があったんだよね。特に病気があったとかってことじゃなくて、全部が徐々に、長い時間をかけて衰えていって、亡くなったから。だから、ばあちゃんとの間、関係性は、ゆっくり最後へ向けてフェードアウトしていった感じもある。最後に言葉を交わしたのは2019年で、そこからコロナ禍が始まって、意思疎通ができなくなって――。つまり、ばあちゃんとの間に「言葉がない」って状況が続いたわけ。言葉でばあちゃんと話すことのできない時間が6年ぐらいあった。だから今、どうすれば言葉がない演劇をつくれるかって考えてる。

最近思うのは――『cocoon』のときから作中でも発語しているけど、ここまで届いた声があるから、まだ自分たちが生まれてもない時代のことを、僕らは知ることができるわけだよね。戦争にしたって、満州のことにしたって。でも、どうにか記録に残そうとしてくれた人がいる一方で、それと同じくらい――いや、それ以上にもっと――そのことを、自らの体験を話さなかった人がいるはずなんだよ。言葉にしなかった、できなかった人が。その沈黙への想像、沈黙を描くということが、僕はまだできてないんじゃないか、って。
ばあちゃんのことを想像してみても、そうなんだよ。たとえば、ばあちゃん以外の家族が、『ああ、ばあちゃんとはもう、話せなくなったね』って話してるとする。でもそういう時に僕が思ってしまうのは、もしかしたらばあちゃんには全部聞こえていて、全部話が通じている可能性だったし、ばあちゃんは声を発することができないだけで、実は全部見ていたし、知っていたのではないか、みたいなことだった。

最近はちょっと、軽々しくなにかを語ることなんてできないんじゃないか、言葉を躊躇することも増えてきたよね。なにかショッキングなことが目の前で起きたとき、自分はそれを語れるのかな、語れる資格はあるのかな、って。でも、それこそ性犯罪にしたって何だって、誰かが語らないと明るみにでないっていう。残酷なことだと思うよね。言葉にしなかったことで、明るみに出なかったことって一体どれくらいあるのだろうと途方に暮れてしまう。言葉って、何なんだろう?と。
『Curtain Call』のときに、「秘密」って言葉を扱ったよね。台詞としては、「だれしもの――内側には秘密がある。その秘密が膨らんでほしい――」っていう言葉だった。どこまで観客に伝わったかはわからないんだけど、自分の中ではかなり当てはまってる言葉なんだよね。
それで言うと、ばあちゃんと僕の間にも、“秘密”があると思っていて。いや、別に隠したいことでもないし、なんでもないことなんだけど、ここまで誰かに、このことを言う機会がなかった、言う必要もなかったこと。たとえば、弟が生まれるとき、母は入院していていなかったから、ばあちゃんとふたりで「ウロコ」という小さなスーパーに行った。手をひかれてゆっくり歩いた。なにか買ってもらったんだけど、なんだったか憶えていないんだが、とにかく嬉しかった。あの時間って、僕とばあちゃんしか知らない“秘密”だったと思うんだよ。ばあちゃんが亡くなったから、その“秘密”を知っているのは、あの時間を記憶しているのは、いよいよ僕だけになって。それが僕の言う“秘密”ってことなんだけど。

たとえばさ、今朝からずっと頭の片隅にあるんだけど、「今日はちょっと、ふくろで飲んで帰ろうかな」みたいなことって、わざわざ誰かに言葉にして話さないよね。いや、今発語してしまい、みんなにバレてしまったが。人が考えていることの9.9割は、自分の中で思ってるだけで、言葉にされないまま消えていくはずなんだよ。浮かんだものの大体は、カタチにならずに消えていく。
そもそも、誰かに聞いてもらいたい言葉なんて、どれだけあるのか。作家はどうにか言葉にして人に伝えようとするんだけど、それってすごい特殊なことだと思う。もちろん、作家っていう出口がなければ誰にも伝わらなかったことってあるとは思うんだけど、ただその一方で、いろいろ眺めていると、なんでもかんでも発表していいと思うなよ、発表すればいいってことでもないからな、って気持ちもあるよね。