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Curtain Call インタビュー

2025/03/28

今年5月に新宿のLUMINE0で公演を行う「Curtain Call 」。ライターの橋本倫史さんを聞き手にむかえ、作品を着想した経緯や稽古をスタートさせたばかりの今の気持ちを藤田が語ります。

 

――5月に新作として上演される「Curtain Call」は、演劇という営みそのものをテーマに据えた作品だと伺いました。まずは演劇をテーマにしようと思った経緯から伺えますか?

藤田 去年の秋に「equal」という作品のツアーがあったんですけど、(吉田)聡子が出演できなくなったんですね。そこで誰かに代演を依頼することもできたし、もっと言えば公演中止にすることだってできたはずなんだけど、改稿を加えて上演することにしたんです。

 

――聡子さんが演じた役は不在のまま、改稿を加えることで作品を成立させる、と。

藤田 ただ、そのツアーは再演を前提に日程が組まれていたから、初演のときより場当たりが1日、2日短くなるんですね。ものすごくタイトな時間の中で、かなり改稿を加えることになったから、楽屋とかでも緊張感のある話し合いが行われていて。作品をつくるには注意が必要なこともわかっているし、すごくセンシティブな状況だってことももちろんわかっているんだけど、こんなふうに何かひとつバランスが崩れたら成立しなくなってしまいそうな状況って、それ自体が劇になったら面白いんじゃないかって、そのとき思ったんですよね。どうにか公演を成立させなきゃまずいと思いながらも、それとは全然違う頭で、「この楽屋をこう舞台に配置したら面白いかもしれないな」って、考え始めていたんです。

 

――この「Curtain Call」というタイトルは、いつ思い浮かんだんでしょう?

藤田 タイトルももう、その段階で思い浮かんでましたね。これは説明が難しいんですけど、普通は劇が終わってカーテンコールが訪れるじゃないですか。でも、今回の作品では、観客は上演に向けた準備を観ることになるんです。その準備が終わって、開演を迎えた瞬間に、カーテンコールが訪れる。だから、観客は演目を観ないんです。それを描くっていうことが、僕が今できることなんじゃないかと思ったんですよね。

 

――演劇という営みそのものを、観客に観てもらう、と。

藤田 それで言うと、『T/S』(藤田貴大・著、筑摩書房、2024年)という小説は、僕の自伝みたいに受け止められているのかもしれないけど、あれは僕がどう演劇と関わってきたのかっていう話なんです。でも――たとえば「equal」を描くとき、伊達に帰って過ごした時間もあるんですけど、そこでは演劇ってものは描いてないんですよね。

 

――「equal」は、藤田さんが18歳まで過ごした北海道の伊達を舞台にした作品でしたね。伊達にいた頃の藤田さんは、ずっと演劇をやっていた、という。

藤田 僕が伊達で過ごしていた時間の9割は演劇なんです。だから、「equal」では皆でバーベキューする時間を描いたりもしたけど、皆がそんなふうに楽しんでいる時間に、僕はずっと演劇をやっていた。それなのに、僕の作品からは演劇っていう時間が抜け落ちてるなってことも思ったんですよね。

(「equal」2024年2月 撮影:細野晋司)

――『カタチノチガウ』(2014年)以降、藤田さんの新作には、劇場という場所が象徴的に描かれることはありましたよね。それに、楽屋の風景がシーンのように見える、という話をされることもありましたけど、それを作品として描こうとはこれまで思ってこなかった?

藤田 飲み会の笑い話みたいにして話すことはあったけど、それを作品として描こうってことは、不思議と思ってなかったですね。演劇って、自分のことだから。自分のことって、あんまり描かないじゃないですか。それを描きたくなったのが、今のマームとジプシーの状況なのかもしれないです。

 

――なぜ描きたくなったんでしょう?

藤田 「cocoon」の再々演(2022年)があって、そのあと伊達に帰ってリサーチをして「equal」を描いたことも大きかったんだと思うんですけど、僕が自分以外の外側と関われる手段って、演劇っていう営みを描くしかないんじゃないかってところまできたのかもしれないですね。

 

――藤田さんは作品の中で、特に20代の頃は郷里の伊達をモチーフとすることが多かったですよね。だから、「昔からずっと、自分のことを描いてきたんじゃないのか?」と思う人もいるかもしれないですけど、藤田さんが今おっしゃった「自分のことを描く」というのは、それとはまたひとつ次元が違う話ということですよね、きっと。

藤田 「cocoon」もそうだし、「equal」もそうなんだけど、自分がどう思っているかっていうことよりも、それこそ史実みたいなものをどう扱うかってところが大きくあったんですね。それを数年やっていったときに、「これって自分なのかな?」と思ったんです。僕が何かを言葉にしようとしたときに、「いや、やっぱりそれは言えないな」と立ち返らざるをえないことが多くて、そこにフラストレーションを感じていたんだと思うんです。今、こうやって話していて思うけど、土地を描くっていうのは大変なことだなってことに、相変わらず直面させられてますね。土地を描くことの、ほんとうと嘘。

 

――それは、18歳まで過ごしていた伊達を描くときでも、大変さがあった?

藤田 伊達っていう土地に、僕はいるようでいなかったなと思うんですよね。うちの父さんと母さんも伊達出身じゃないし、ふたりから「貴大はいつか東京に出るんだよ」って言われてたし、演劇があったからなんとなくあの町に関われているけど、演劇がなければ自分にとってあの町での時間はなんだったんだろうなって、伊達に帰るたびに思うんですよね。「equal」で伊達を描くときにも、どこか矛盾があって、その作品の中には自分がいないんですよ。でも、演劇っていうテーマの中であれば、もうちょっと自分に近づいたことをやれるんじゃないかと思っているんですよね。

 

――20代の終わりごろから、藤田さんはいろんな土地に出かけて行って、そこに滞在しながらクリエイションをするということに取り組んできましたよね。ここ数年は、長野県の上田や、出生地である前橋に滞在して、展示作品として発表するという活動も続いていますけど、それと並行するようにして、長い時間をかけて『T/S』という小説を書いてきたことで、自分の言葉はどこにあるのかってことを意識するようになったんですかね?

藤田 そうですね。やっぱり、どこの土地に行っても、そこに自分はいないんですよね。上田で作品を展示したときも、「そうそう」って、シンパシーをおぼえたような表情をしてもらえることはあるんです。「そこを見てくれたんだ?」みたいにして。だけど、僕が「こういうふうにこの土地と関わってきたんです」ってことをいくら重ねたところで、僕はその土地の人間ではないんですよね。作品の中にしか、自分の言葉はないんです。これは昨日、日比谷野音でZAZEN BOYSのライブを観ているときにも思ったことで――まだ昨日のことをうまく言葉にはできないんだけど――最近感じているのは、「自分は今、こういうことに直面している」ってことの一点突破でいくしかないんじゃないかと思うようになったんですね。

 

――一点突破でいく?

藤田 土地を描くとなると、コンプライアンスじゃないけど、「これを言われたらショックだろうな」ってことを考えてしまうんです。これは伊達で演劇をやっていた頃に子役だったことが関係あるんじゃないかと思うんだけど、「この町の人たちが傷ついて欲しくない」ってことが刷り込まれ過ぎてて、リミッターが働いてしまう。たとえば、「equal」の中に、「この町って色がないよね」って言葉が出てくるけど、それは僕の中では結構本音なんです。僕個人としては、伊達って町には色がないと思っているから、「色がないよね」って言葉だけでいいはずなんです。でも、その言葉だけを語ってしまうと、誰かが傷つくかもしれないなと思うから、「いや、色がないとは思わないよ」って言葉を別の俳優に語らせて――それはちょっと、良くも悪くもおじさんになってきたなと思ったんです。このリミッターの働かせかたって何なんだろう、って。自分は表現をやっているのであって、倫理をやっているわけじゃないんだよな、って。たとえば12年前に『てんとてんを、むすぶせん。からなる、立体。 そのなかに、つまっている、いくつもの。 ことなった、世界。および、ひかりについて。』をつくっていたときとか、『カタチノチガウ』をつくっていたときって、観客に対して何を言うかってことに対して、かなり研ぎ澄ましていたと思うんです。誰がどう思うかとかじゃなくて、自分は何を言えるのか。昨日のZAZEN BOYSのライブを観ていても、そこをすごく考えさせられたし、すごいなと思ったんですよね。だから、もっと観客の実感がないところ――そう、観客からすると実感がない気がするんです。楽屋裏がどうなってるかとか、普通は見れないですよね。演劇は表に出てきたものしか見れないっていう面白さがあって、そこだけ観ているのでもいいのかもしれないんだけど、皆が知らない話を堂々としてるみたいなことを、たぶん一番やりたいんだと思います。

(「equal」2024年2月 撮影:細野晋司)

――藤田さんは、新しく発表するすべてを「新作」と呼ぶのではなくて、いくつかの作品だけを「新作」と呼んできましたよね。今おっしゃった、観客が普段見れないものを作品として描くというのは、単に楽屋裏を開示するというわけではなくて、そこにしか存在しない、純度の高い自分の言葉を描くっていうことですよね、きっと。

藤田 演劇って、素材のない世界だと思うんです。そのひかりが欲しかったら、そのひかりを自分たちで創らなきゃいけないし、その音が欲しかったら、自分たちでその音を創らなきゃいけないんです。こういうビジュアルが欲しいと思ったら、衣装を創らなきゃいけない。そうやって、世界を創生していかなきゃいけないところが演劇にはあって、それが楽しいからやっているんだと思うんです。これまで皆さんにフィクションを提供してきましたけど、それも全部創ってきたものなんです。演劇という営みを描くってことは、そこの原理的な部分を見せるというか、どういうことを考えながら演劇をつくってきたのかを見せるときが来たんだと思います。これまでも、たとえば去年発表した「Chair/IL POSTO」だと、自分より一回り年下の俳優たちと作品をつくるときも、「その人たちがどういうふうに演劇やダンスに関わっているのか?」ってことを、オーディションで選んだイタリアの俳優たちと話しながら描いたんだけど、それはやっぱり、僕自身の話ともまたちょっと違うんですよね。今回は、僕の中で演劇って何なのかってことを率直に描くことになるから、結構恥ずかしいんですよね。

 

――恥ずかしいというのは?

藤田 2月にプレ稽古があったんですけど、そのときも途中でやりたくなくなって。違う業界のことだったら、ちょっと嫌な部分も楽しんで描けると思うんだけど、演劇の嫌な面とか、本当に嫌だな、って(笑)。なんか、家族の嫌なところを見るような感じがして、本当に恥ずかしくなるから、あんまり書きたくないんだけど。でも、土地を描くのと違って、演劇のことはいくらでも悪く言えるし、良くも言えるんですよね。それはもう、僕の中にしかないものだから。

――今の話を聞きながら、海外公演のとき、藤田さんがカーテンコールで舞台に登場するときの姿を思い出してました。俳優の皆はカーテンコールにすっかり慣れてますけど、藤田さんはずっとぎこちなさそうというか、気恥ずかしそうにしてますよね。

藤田 カーテンコールって、一番嫌な瞬間かもしれない(笑)。それで言うと、観客との関わりかたも、時代とともに変わってきた気がするんだけど、今回が一番気恥ずかしい気がします。演劇を描くってことは、自分自身のことだから。

 

(インタビュー写真・構成 橋本倫史)


公演詳細はこちらより

「Curtain Call」
作・演出 藤田貴大
出演:青柳いづみ 石井亮介 渋谷采郁
成田亜佑美 長谷川七虹

日程:5月8日(木)-5月11日(日)

会場:LUMINE0
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ケ谷5丁目24-55 NEWoMan Shinjuku 5F

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