2026/04/17
ばあちゃんが亡くなって、ずっと考えてるのは――ばあちゃんは僕が知らない時間をずっと生きてたんだな、ってことで。いや、それはもちろんのことだし、ばあちゃんに限った話じゃないんだけど。皆それぞれ、自分しか知らない時間を生きてるんだと思う。他の人からは見えていない世界が、膨大にある。

僕の中では、ばあちゃんと言葉を交わしたときのことが記憶になってるんだけど、ばあちゃんが生きてきた時間っていうのは、それ以外の時間がほとんどなわけだよね。そう考えたら、僕とばあちゃんとの間のことを描いたところで、ばあちゃんのことを描いたとは言えない気がするんだよ。僕といなかった9.9割の時間のことに――僕からは見えていない世界のことに想像力を向けないと、駄目なんじゃないか。
演劇って、どうしても言葉があった時間がシーンになっていくところがあって。そこを軸に人を描こうとしたら、主観的な記憶の断片を探すだけになってしまう。今までのマームも、そうだった気がする。群像劇として描いていたら、主観はどんどん入れ替わっていくんだけど、言葉がないシーンってなかなかなかった。人が生きてる時間って、言葉なんてない時間のほうが多いはずなのに、演劇ってどうしても言葉があった時間がメインになってしまう。そこに対しての反論が、この作品にはあるんだよ。
たとえば、介護施設にばあちゃんに会いに行く。そこでしばらく言葉を交わして、「じゃあね、ばいばい」って去るわけだけど、ばあちゃんにとっては僕が去ったあとの時間のほうが圧倒的に長いわけだよ。それなのに、「じゃあね、ばいばい」って言葉を交わした時間の記憶しか僕の中の描写にはない。記憶を頼りに描こうとすると、結局のところ、そこに言葉があった時間の話になってしまう。

それで言うと、『線に宿る 点を巡る 夜を歩く』のとき――“こじこじ”(髙宮梢)が寝返りを打ってるシーンはすごいよかったなって思ってるんだよね。言葉はなくて、ただ寝返りを打っている時間が続く。あのときは結局、スクリーンに字幕を出しちゃったけど、字幕を出すって手段をもっと減らすことで、“こじこじ”にしか――自分ひとりにしか共有できない時間を、観客は見てるだけって時間を描いたらいいのかもしれないね。

大学の頃、平田オリザさんが授業で言っていた「本当になんにもない時間を描ける人が、次の時代を――」って話が、なんかわからないけどずっと僕の中にあって。たぶん僕は――今思えば、それもあってリフレインみたいな発想になっていった気もする。最初のシーンで描かれたときには、なんにもないような時間だったのが、リフレインされることによって微妙に意味ができてくる。それがマーム初期のリフレインだったと思い出すし。

ただ――僕が今考えてるのは、もっとこう、ひとりのことなんだよ。たとえば、家族とばあちゃんのダイアローグを思い出して、それを描いてリフレインさせたこともあった。でも、家族が去ってひとりになった時間のことを、僕は描けたことがあるのかな、って考えてるんだよ。
(写真・構成 橋本倫史)
公演詳細・ご予約はこちらより
「dusk dark dawn」
作・演出:藤田貴大
出演:髙宮梢 仲宗根葵 中村未来 成田亜佑美
日程:2026年5月2日(土)〜6日(水)
会場:LUMINE0(最寄り駅:新宿駅)
〒151-0051 東京都渋谷区千駄ケ谷5-24-55 NEWoMan Shinjuku 5F