2026/06/06
5月、新宿のLUMINE0にてマームとジプシーの新作『dusk dark dawn』を発表しました。
家の記憶、失われた風景、聞くことのできなかった声、そして、誰かを失うたびに積み重なっていく喪失。
インタビュアーにライターの橋本倫史氏を迎え、千秋楽を終えたばかりの藤田に、創作の過程で見えてきたものについて聞いていきます。(全3回)

――今回の『dusk dark dawn』は、昨年12月におばあさまが亡くなったこと、そのとき藤田さんが感じたことがもとになった作品でした。ついさきほど千秋楽を終えられたばかりですが、稽古から上演に至って、どんな感触がありましたか?
藤田 ちょうど1年前に、ここ(新宿「LUMINE 0」)で『Curtain Call』を発表したときに、「自分はもう、あんまり言葉を書かないかもしれないな」って思ってたんですね。簡単に言葉を書くのはやめよう、と。だから、ばあちゃんが亡くなったときも、「これを演劇にしようとか思わないようにしよう」って、咄嗟に思ってしまったのも事実あったんです。
――ああ、そうだったんですね。「おばあちゃんが亡くなった」という報せを受け取った瞬間から、どこか作品を描くことが頭にあったのかと思ってました。
藤田 ただ、そこから伊達に帰って2泊してるうちに、夜とかに天井を眺めながら「やっぱり、描いてみようか」と思い始めて、この半年間過ごしてたんです。そこでは、こう、感情的にならずに、どこまで良い編集で描けるかみたいなことを考えていて。だから、たとえば「箒を探す」とか、「ドームを建てる」とか、書くってことだけに流されないように、ビジュアルのことを考えていた気がします。それはすごく楽しかったけど、同時に何をやってても彼女の姿にフォーカスされるような時間だったなとも思うんですよね。これは今日話したいなと思ってたことのひとつなんだけど、やっぱり自分は、演劇にしないとわかんないんですよ。
――前にもそれに近しいことを言ってましたよね。戯曲というものに触れて、初めてわかったことがあった、と。
藤田 そうそう。演劇にしないとわからないっていうのが、作家とかいう以前に、個人としての自分にとって、なんか難しくあるんですよね。この「難しくある」ってことばが、自分にとってはふさわしい感じがするんですけど。ややこしい、というのもそうだけど、難しくある。そこで気づいたことも、いっぱいありましたね。こんな作品を描いといて何なのかって話ではあるんだけど、12月2日に実家に帰ったのは、親としては普通に迷惑だったんだろうなってことも思うんですよね。僕は車の免許も持ってないし、ビール飲んでるだけなんですよね。
――作品の中では、祖母が亡くなったと連絡があったときに、親から「帰ってこなくていい」と言われるわけですよね。葬式はこっちでやっておくから、と。それに対して、“あゆみちゃん”は憤って、「とにかく、帰るから」と伝える。ただ、免許がないと、駅まで迎えにきてもらわないと、家にも帰れないという。
藤田 あそこはもうちょっと、僕的には笑えるシーンでもあったんですよね。「お前!」みたいなね。「帰ったところで!」っていう。でも、そういうことも、いちいち並べてみないとわからないんですよね。並べてみてわかりました。両親にとって、僕の帰省は物理的に迷惑だったんだろうな、って。
――両親は両親で、やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、と。
藤田 作品には描かなかったけど、帰りは父さんが室蘭まで送ってくれたんですよ。始発の飛行機で東京に帰って、『Curtain Call』の稽古に行かなきゃいけなかったから、それこそ「dawn」の時間――明け方に――室蘭駅まで送ってくれて。その日は吹雪で、室蘭まで道で自動車が3台ぐらいスリップしてて、ノロノロしか行けなかったんですよね。あの時間は何だったんだろうなってことも、作品にしてみないとわからないんだろうな、と。誰かが亡くなったとき、日記を書くって人もいるだろうし、近くにいる誰かに話すって人もいるだろうし、人それぞれ処理のしかたがあるんでしょうけど、僕にとっては演劇なんだろうなと思いましたね。

――藤田さんは、過去の作品でも、家というモチーフは繰り返し描かれてきたと思います。おじいさんが亡くなって、2011年には『待ってた食卓、』があって、その家が取り壊されることになったときに『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』(2012年)がある。そこから、2014年には『ΛΛΛ かえりの合図、まってた食卓、 そこ、きっと—————』があって、この作品は2017年のマームとジプシー10周年の際に全国で巡演されています。今回の『dusk dark dawn』は、それらの作品では考えなかったことについて考えようとする時間でもあったのかな、と。
藤田 今回の作品は、初日からテキストを一語も変更していないんですけど、『Curtain Call』とはまた別の次元で、役者との対話があったんですよね。ずっと話していた。ただ、役者と話し合っているなかで、「なにか足りてないんじゃないか?」ってことを考えたんです。これは役者が悪いとかってことではもちろんないんですけど。
――でも、なにかが足りていない感覚があった、と。
藤田 そうですね。さっきの質問で言うと、『待ってた食卓、』とか『ΛΛΛ』とかで考えていなかったことがあるとしたら、それは声のことなんだろうなと思ったんです。僕としては、初日に向けて無意識/無自覚に書いている部分もあるから、役者と話していくなかで、僕も一緒に気づいていくところがあって。この作品における主題だけを捉えるならば、ばあちゃんのことだけ描けばよかったかもしれないですよね。でも、唐突に「もう、この町にはいない――もう、会えない――あの子、あのひと――」って言い出したり、「わたし、わたしたちは失い――失いつづけて」って言ったり――そこも別に、「わたし、わたしたちは、失って」って言うだけでもいいはずなんですよね。わたしのおばあちゃんが亡くなったってだけでいいはずなのに、あたかも何回も失っているような言い方をする。作品の中で扱っている喪失の後ろに、別の誰かが何人かいる。そういう描き方をしたのも、声ってことを考えていたのと繋がってる気がします。
――声。
藤田 『待ってた食卓、』とかを描いてた頃は、自分まで届いた声だとか、自分が目の当たりにしたことを大切にしていた気がするんですよね。でも、僕まで届かなかった声や、僕が目の当たりにしなかったものが膨大にある。それに気づいたときに、どうやって表現するかが難しくて。正直、自分が目の当たりにしたものを自分の体験として描くほうが楽ですよね。自分の体験としてのじいちゃんの話は描けてたんだけど、ばあちゃんのことを描くとなると――もちろん、体験としてのばあちゃんの話もたくさんあるんだけど――体験したとも言えないことがあるって、この年齢になって気づいたんです。
――今作のチャプター2.5「dust」は、記憶ももうおぼろげになって、言葉を発することもなくなっている“彼女”が頭の中で考えていることが、発語としてではなく、テキストとしてスクリーンに映し出される、という構成でしたね。実際に声として聞くことのなかった、祖母の頭の中に浮かんでいることを、どうにか想像して描く、という。
藤田 チャプター2.5のところ――(中村)未来の姿だけが舞台上にあって、あとは字幕だけっていうところが、僕は描いていて一番つらかったんですよね。そして、あれができてよかった。まあでも、それさえも想像でしかないんですよ。実際に何を思っていたのかってことは、聞けてないから。ただ、10何年前の自分は、自分が聞けていなかった声があるってことに気づけていなかったから、そこが大きな違いなんだと思います。

――もし聞けていた声があったとしても、そこで語られたことがすべてではないでしょうし、「聞けなかった声がある」というのは、永遠についてまわりますよね。
想像、ということで言うと、12月1日におばあさまが亡くなって、今作の上演に至るまでの半年間には、川上未映子さんの『ウィステリアと三人の女たち』(以下、『ウィステリア』)の上演もありました。そこでも「家」という場所は大きなモチーフとして登場しますが、あの作品は、解体されている近所の家に入り込んだ「私」が、そこに暮らしていた誰かの人生を想像する、という話でもありますね。『ウィステリア』に取り組んだことも、今回の作品に影響を及ぼしたのでは、と。
藤田 それはめちゃくちゃありましたね。今回の『dusk dark dawn』の中に、電車のなかで眠ってしまって、「どういうわけか、わたしは――その隅から隅までを――箒で、掃いていた――」ってシーンが出てくるけど、あれは実際にそういう夢を見たわけではなくて、『ウィステリア』のことがあったんですよね。
――『ウィステリア』でも、青柳いづみさん演じる「私」が、部屋を掃除したり、料理を作ったり、家事をしている姿をただ見つめるシーンがありました。
藤田 そう。ただ、『ウィステリア』で描かれている「主婦」は、たぶん棕櫚の箒は使ってないだろうなと思ってたんだけど、棕櫚の箒が欲しくなったんですよね。そこで「棕櫚の箒っていくらなのかな?」と検索したりして、『ウィステリア』の小道具集めをしているうちに、箒の世界を知っていくんですよね。
――箒の世界……?
藤田 箒って、色々種類がありますよね。「こういう箒は、どの地域でつくられているのか」みたいなことも調べたり、箒に関する本とかも買ったり。そうやって箒の世界を知っていくうちに、「これ、『ウィステリア』以外の作品でも、掃除をし続けるシーンを描けるな」と思ってたんです。箒で言うと――チャプター1の「dusk」のテキストを書いてるとき、母さんに何回か電話したんだけど、前橋の家の庭にあったのはソテツの木だと思ってたんですよ。
――おじいちゃんとおばあちゃんが住んでいた家の間取りを確かめるために、あらためてお母さんに電話されたわけですよね。藤田さんの中では、その家の庭にあるのはソテツの木だと記憶していた、と。
藤田 ちょっとこう、トゲトゲしてて、南のほうにありそうな――絶対北海道にはないんですよ、ああいう木って。それを僕はソテツだと思ってたんだけど、母さんが「あれは棕櫚の木だった」って言ってたんですよね。あと、『ウィステリア』のときにも、「家屋が死ぬ」ってことを考えてたし、『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』のことも思ってはいたんですよ。たしかに、家っていとも簡単になくなるよな、って。群馬で生まれ育ったばあちゃんが、北海道に移らなきゃいけなくなった理由はいくつかあるんだけど、道路拡張工事で家が取り壊されるっていうのは決定的な理由になったんですよね。家が取り壊されるときに、そこにあった記憶も崩れ去るってことは、『ウィステリア』を描いている間も考えていたことだったし、そのことは今回の作品でもどこか片隅にありましたね。

――『ウィステリア』の上演について、『文學界』(2026年4月号)でインタビューした際に、「この“主婦”の女性は、自分が住んでいる部屋にあるものを、自分のものだと思えてない感じがする」と藤田さんがおっしゃってましたよね。今回の『dusk dark dawn』の、祖母の家を思い返しているシーンの中で、「夜空の模様の、すりガラス」という言葉が出てきます。こういう昔ながらの型板ガラスは、最近は「昭和レトロ」なものとして脚光を浴びてますけど、たしかに昭和の時代の家庭にはよく使われていたものですよね。この「昭和ガラス」の全盛期だと、「結婚すると女性は“主婦”になる」という価値観が支配的で、家の中で時間を過ごすのが多いのは女性だったわけですよね。昭和ガラスはファンシーな柄も多いですけど、あのガラスは誰が選んでいたのか、女性は選ぶことができていたんだろうかってことも、ちょっと思ったんです。
藤田 実は『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』の頃から、結構ガラスの話はしてたんですよ。ただ、その頃は「すりガラスの向こうのひかり」みたいな話だったのを、今回初めて「夜空の模様の」って話をして。ああいうガラスのことも色々調べたんですけど、ひとつひとつの模様にコンセプトというか、名前がついてるんですよね。ばあちゃんの家にあったのは「よぞら」って模様で、ほんとにこう、星がきらんと輝いてる模様なんですよね。
NO.2へつづく。
(聞き手:橋本倫史/写真:井上佐由紀)