mum&gypsy

dusk dark dawn ロングインタビュー

NO.2

2026/06/07

5月、新宿のLUMINE0にてマームとジプシーの新作『dusk dark dawn』を発表しました。

家の記憶、失われた風景、聞くことのできなかった声、そして、誰かを失うたびに積み重なっていく喪失。

インタビュアーにライターの橋本倫史氏を迎え、千秋楽を終えたばかりの藤田に、創作の過程で見えてきたものについて聞いていきます。(全3回)


――過去作との比較で言うと、『待ってた食卓、』にせよ、『ΛΛΛ』にせよ、たとえばみんなでちゃぶ台を囲んでいるシーンが出てきたり、ちゃぶ台を囲みながらのダイアローグがあったり、お茶の間という場所をシーンとして描いているところが多々ありましたよね。それに対して今作は、斎場のシーンと、そこから自宅に戻ったシーンとはダイアローグ的な発語もありますけど、大半がモノローグで構成されています。斎場のシーンにしても、ダイアローグ的な発語ではあるものの、実質的には“あゆみ”の一人語りのように展開していく。これは一体どうしてなんだろうなって、初日の上演を観てからずっと考えてたんです。ひとつ思ったのは、たとえば私と誰かのふたりだけが共通して持っている記憶があるとして、それも「秘密」ではないか――という話を以前藤田さんがされてましたけど、“わたし”と“彼女”が共有していた「秘密」があったとして、彼女に死なれてしまうと、“わたし”はその秘密を共有し合う相手を失ってしまうわけですね。その、語りかける相手がいなくなって、ぽっかり残された感じというものが、今回のモノローグにあるのかな、と。

 

藤田 そうですね。今回は久々にモノローグを書こう、としっかり思えたというのもあったんです。今はもう、ばあちゃんと話した記憶みたいなのが、あんまり思い浮かばないんですね。いや、ばあちゃんとの記憶はめちゃくちゃあるんだけど、思い浮かばなくて。自分の中でだけ、ばあちゃんとの言葉が渦巻いていく。その状態をそのまま描きたいなと思ったんです。もしかしたら観客は、僕のこの感じに混乱する部分もあるかもなと思いながらも、自分の中だけで湧き上がった言葉を、いかに演劇っていう世界で――小説よりは文字数を書くことができない世界で――書けるかってことを考えていた気がします。

――これも発語の話と関わってくるところですけど、今回の作品は、チャプター2の「dark」は、髙宮梢さん、中村未来さん、仲宗根葵さんが順番に登場し、ほとんど台詞もないまま寝返りを打つ時間がありました。それはきっと、台詞で何かを伝えるというだけではなく、観客が誰かの身体を見つめる時間をどう設計するのかってことがあったんだと思うんですけど、出演者のキャスティングも含めて、そのあたりはどんな意識があったんでしょう?

 

藤田 身体にだけフォーカスしていくシーンについては、とにかく稽古をやりながら考えたかったんです。“こじこじ”(髙宮梢)がいとこをやるとか、(中村)未来がばあちゃんをやるとか――そういうことはあえて考えずにキャスティングした。そのほうが面白いだろうなって感覚的に思ってたから、稽古が始まってからも、どういう役をやるのかみたいなことはあんまり説明せずに進めて行ったんですね。役とかは一旦置いておいて、ここは寝返りをうつ。重なって牛になる、みたいなブロックだけを決めて、ひたすら身体と向き合った。というのも、役者さんが何か役を演じるとなると、僕がモデルであっても、僕以上の何かになってしまう瞬間があって。役者さんって達者にしゃべれるから、すごく強度を持った発語になってしまう。だから今回は、あゆみ(成田亜佑美)とあおい(仲宗根葵)にはつけているワイヤレスマイクを、こじこじと未来にはつけないことにした、ということも音響とそこには結構こだわった。床置きにマイクなどでどこまで素の声を拾えるか。達者にしゃべれない状況をつくることが今回は大切な気がしたんですよね。

 

――これまで、藤田さんのいくつかの作品では稽古の様子を見せてもらうこともありましたけど、それこそマーム10周年の頃を振り返っても、「もっとこういう発語をしてほしい」と俳優に求めることが多かったですよね。もっと強度のある発語を、と。俳優的な強度とは違う発語を、というのは、今回の作品ではそれが必要だった、という話かもしれないですけど、なにを舞台上にのせたいのかって感覚が違ったんでしょうね。

 

藤田 僕の中でも、まだ言語化できてないんだけど――どうしても強度の方へ持っていこうとしてしまうところがありますよね。これは別に、強度のある発語をする役者さんを否定しているわけでは全然ないし、強度のある発語があれば作品の強度も強くなることはわかってるんだけど、たとえば現実世界で、ばあちゃんの最期の姿に会いに行ったとき、そこに強度のある発語をする人なんていないわけですよ。あの感じを描きたかったのもあるのかもしれないですね。たとえば市民参加型の作品であれば、普段は俳優をやっているわけでもない人が舞台に上がることはある、それがその企画のよいところ、みたいなところがありますね。でも、マームのオリジナル作品だと、あんまりそういうことってなかった気がするんですよね。やはり僕の言葉を語るうえで、強度を求めるし、強度を持つことになる。このあたりの話って、マームを誰かが語る時にあんまり今まで触れてもらえなかったところかもしれませんね。だから、今回の“声”についての、強度の歪さ、斑(まだら)さって、最近の自分の作品としては新しかった気がしていて。あと、最初にも話したように、今回はまずビジュアルから考えたところもあるし、ビジュアルと、音楽と、テキストと、役者さんとが、どれだけそのそれぞれの魅力をフルな状態で共存させることができるのか、ってことを考えていたような気もするんですよね。その作品の中で、「ダンスか、演劇か」みたいなことではなく、ただ舞台上にいる、みたいな時間を描けたのは、良かった気がします。

――今回の作品には、『Kと真夜中のほとりで』(2011年)にも登場した、「牛乳でも飲もうかなあ――」「でも、飲んだら――お腹くだすよなあ――」という台詞がありましたね。『K』のときも、俳優の身体をいかに観客に見せるのかという部分はあったと思うんですけど、それは音楽ともあいまって、激しい動きとリフレインを重ねることで、グルーヴを生み出していく、という側面も大きくあったと思うんです。それに対して今作は、音もないまま、寝返りを打つ3人の姿を、観客がじっと見つめる時間がある。それはきっと、今この時代に、自分自身以外の誰かの身体をどこまで見つめることができるのかって意識があるんだろうなと思ったんです。

 

藤田 今回の台詞で、「わたしじゃない身体――たとえば、たったいまこの瞬間――」「そのひとは、苦しいかもしれない。痛いかもしれない。泣いているかもしれない――」「わたしは、たったいまも――こうして、あたりまえのように動いていられるけれど――」って言葉を書いてもいるんだけど、これは単に老人のことだけを言っているわけではなくて、今この瞬間に兵隊に行く人だっているだろうし、自由ってものから遠いところにいる人もいっぱいいて。そんな中で、新宿みたいな日本でも極端な場所、現在の色んな声や現実が目の当たりにする/飛び交う新宿で、こういうひたすら身体、それを見つめる観客、という空間を作れていることが、僕はなんか変なことだな、面白いな、と思ってるんですよね。

 

――今回の作品は、髙宮梢さんが出演していて、そこでも寝返りを打ち続けるシーンがあった、昨年11月に上田で上演された『線に宿る 点を巡る 夜を歩く』とも地続きなんだと思いますし、もうひとつ、仲宗根葵さんが出演されていた『Chair/IL POSTO』とも繋がっているんだろうなと思ったんです。わたしではない誰かのことを――そこにたしかに佇んでいたはずの誰かのことを、どこまで想像することができるのか、と。

藤田 そうですね。キャスティングをしたときに、役柄についてはみんなに言葉で説明しなかったんだけど、そういう話はそれぞれに言葉で話したんです。それぞれの身体を通して、マームとジプシーが考えてきたこと。例えば、“こじこじ”には上田での話をしたし、(中村)未来に対しては、『sheep sleep sharp』(2017年)までに遡って、あのとき未来と一緒に、椅子に座る、ベッドに横になる、ってシークエンスを作ったよね、って話をしたりして。あおいに関していうと、おっしゃる通りで、『Chair/IL POSTO』のことは頭にあって。

 

――あの作品には、幡ヶ谷のバス停で殺された女性のことが出てきます。

 

藤田 あの女性も、darkからdawnに向かう時間に亡くなっていて、この作品を上演しているのは新宿で――そういうことも、僕の中では考えていたんですよね。……そうですね。身体性におけるシンパシーみたいなことだけで今回の3人を選んだわけじゃなくて、それぞれの作品の暗闇の部分で3人の姿を見てきたから、キャスティングしたのもあったんですよね。

 

――俳優の身体がごろんと舞台上に置かれている時間がある一方で、もうひとつ印象的なのは、全編に渡って日本語字幕が表示されている、ということでした。リラックス・パフォーマンス回も設けられていて、このあたりはきっと、制作的な要請として、作品のアクセシビリティを上げること、およびそれに関連した助成金を申請していることがあったのだとは思うんですけど、すべての人に開かれた環境であるべきだ、という話と、すべての観客が見えるかたちで日本語字幕を表示するかどうかという話は、またちょっと位相が違う気がするんです。そこにはきっと、アクセシビリティを上げるということに加えて、この作品ではすべての観客に字幕というかたちでテキストを届けたいという、作家としての意志があったんじゃないかと思うんですよね。

 

藤田 そうですね。アクセシビリティってことで言うと、今後も英語、多言語の字幕を表示、今回みたいに日本語字幕を出すとか、バリアフリー字幕を作成する、音声ガイドがあるとか、作品を鑑賞するうえでのそういうことはやっていきますよね。単に無しというのは、もうあり得ないかな、と。ただそれとは別に――年がら年中戯曲を書いていると、誰かなのか、何かなのかに向けて、長い手紙を書いているような感覚があるんですね。その気持ちがどこかにないと、執筆ってしないと思うんです。そこがちょっと、小説ってすごいなと思う部分でもあるんですけど、僕はやっぱり、最近は特定の人に向けて書くような気持ちで、戯曲を書いてるんですよね。その長い手紙を、文字として観客にも見てほしいなって、今回は特に思ったんです。

 

――国内での上演に際して、全編に渡って日本語字幕を表示するというのは、藤田さんの作品では初めてですね。

 

藤田 そうですね。それで言うと、今回もついてくれてる舞台監督の原口(佳子)さんが、『Chair/IL POSTO』のとき、「藤田くんのテキストを初めて日本語字幕で見た」って言ってくれたんですよ。あの作品は、イタリアの俳優はイタリア語で、日本の俳優は日本語でしゃべるから、日本で上演するときにはイタリア語で発語されるテキストは、日本語の字幕を出したんですよね。そのとき原口さんが、「藤田くんのテキストを日本語字幕で見るのは良い経験だった」ってことを、飲み会レベルの場で話してくれて。たしかに、ああいうきっかけがないと、自分の作品に日本語字幕をつけるってことを意識しないままだったかもしれなくて、そこから「日本語の字幕を出すっていうことは」って考えるようになったんですよね。ただ、日本語字幕を出すのは、結構大変だったんです。

 

――公演初日を迎える前の日も、結構な時間を割いて「どういうタイミングで字幕を表示するのか?」というやりとりに時間を割いてましたよね。

藤田 ラスト1週間は、ずっと字幕のことでしたね。日本語字幕の出し方って、すごい難しいんですよ。役者さんの発語を聞き取ることができる観客も字幕を見る、となると、字幕を表示することが、役者さんの発語を邪魔することになってしまうんじゃないか。だから、その発語に対して、どのタイミングで字幕を表示するのか。どういう行分けで、字幕を出すのか。それをずっと考えてましたね。

 

NO.3へつづく。

(聞き手:橋本倫史/写真:井上佐由紀)

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