2026/06/12
5月、新宿のLUMINE0にてマームとジプシーの新作『dusk dark dawn』を発表しました。
家の記憶、失われた風景、聞くことのできなかった声、そして、誰かを失うたびに積み重なっていく喪失。
インタビュアーにライターの橋本倫史氏を迎え、千秋楽を終えたばかりの藤田に、創作の過程で見えてきたものについて聞いていきます。(全3回 最終回)

――過去の作品からの流れということで言うと、話しておきたいのは『cocoon』のことで。今回の作品には、2022年の『cocoon』にも印象的に登場した「夢か、現か――」という台詞も登場しますよね。
藤田 あの言葉に関しては、『cocoon』って話じゃなくても、僕は幼い頃から眠りが浅くて、今でも「ここはどこなんだろう?」ってくらい魘(うな)されて起き上がって、混乱する夜が多いんですよ。そして夢の中で思いつくことがあったり、現実の中でも「今のこれって、夢なのかな?」みたいに思うことがあったり――。そういうことは、それこそ『Kと真夜中のほとりで』とか、夜三部作でも考えてたことではあるんです。その意味では、そういった作品の集大成が『cocoon』だ、ってところもあって。
――なるほど。
藤田 「夢か、現か」って言葉だけで言うと、穂村(弘)さんが教えてくれたんです。『書を捨てよ町へ出よう』のときだったか、僕らは「現」の読み方が最初わかってなくて、それを穂村さんが「うつつだよ」って教えてくれて。この10年くらい、その『書を捨てよ町へ出よう』とかも含めていろんな仕事をしている中で、「どこまで夜を描けるか」ってことが、僕にとって人生のテーマになってきてるところもあって。ただ、ドラマを扱うというのは、支離滅裂なことが許されない世界でもある。観客に支離滅裂だと感じさせてはいけない自覚もある。でも、今回のチャプター2の「dark」は特に、あおいの想像/妄想が支離滅裂に広がっていって、それがすごく夢っぽい感じがあって。彼女の中で不安が現実化しちゃった夜なんだろうなってことを、あんまり言葉で説明せずに描けたらなってことを考えていたんです。それで言うと――さっきの質問に繋がるんだけど――今回の作品に出てくる“あおい”の姿は、『cocoon』に登場する“あおいちゃん”と、僕の中では繋がってるんですよね。僕の中では、『cocoon』で“あおい”がいたあのガマはアブチラガマがモデルになっているけど、そこで“あおい”は、色鮮やかな着物を着て、化粧をした女性たちを目にする。『cocoon』のあのシーンがあったから描けたこともある気がするんですよね。あのときも“あおい”は、“こいし”と一緒に、真横の姿で動いてたけど、今回も真横に動いてるんですよね。
――真横の動きで言うと、今作に登場する、死んでしまった牛を抱き抱えて運ぶシーンも真横の動きでしたけど、『ヒダリメノヒダ』でも同じアングルで牛の亡骸を運ぶシーンがありましたね。それで――2022年の『cocoon』に関して言うと、この世界で巻き起こったことを伝えようと言葉にしてくれた誰かがいてくれたから、その言葉がわたしたちまで届いて、知ることができた話があるし、こうして『cocoon』を描くこともできた――というトーンが色濃くあったと思うんです。それに対して、今回の『dusk dark dawn』は、その外側に膨大にある、言葉にされなかったことに対して、どうやって手を伸ばすことができるだろうかという問いを考えた作品だったと思うんですね。そうやってこの作品を観た場合に、すごく強い言葉だなと思ったのは、“あゆみ”が口にする、「声にならない声が――声、というかたちを成していない――声が――声なき、声が――わたしの耳まで、ささやかに届く――」という台詞なんですよね。これを語るかどうかって、すごく難しい作業だなと思ったんですね。声にならない声は、実際には私の耳に届くことはないんだけれど、それでもこれを言っておく、と。それは単にセンチメンタルな言葉としては言えないだろうなと思ったんですよね。

藤田 なんか、海にいるときを想像してたんですよ。伊達にいると、たとえばハングルが書かれた洗剤とかが流れつくわけです。あるいは、震災で流されたサッカーボールが北海道で見つかったって話もあったけど、海ってなんか流れ着く場所だったんですよね。どこから届いたのかわからないけど、流れ着いたものがいっぱいあって、ささやかな波の音が聞こえている。無関係なようで、無関係じゃなくて、でも無関係ではある。ただ、無関係だからといって、それを無視することはできない。そういう何かが、耳まで届く。そうやって自分が感じていたことと、この作品とが、どこかで繋がった瞬間があったんですよね。この作品に登場する“あゆみちゃん”にとっても、どうやらそれが最近の彼女にとっての主題だったんだと思うんです。声なき声が、実際に聞こえるなんてことはもちろんないんだけど、でもその声が無関係とは言えない、というか。
――もうひとつ、そのテキストと同じく強い言葉だなと思った箇所があって。ちょっと言い合っていた“あゆみ”と“あおい”が、こういうのも、ぜんぶ“彼女”に聞いててほしかった、と口にする場面が出てきますよね。死んでしまった祖母に、こんなやりとりも聞いていてほしかった、と。そんな“あおい”の言葉に、「聞いてる。ぜんぶ聞いてるよ」と、“あゆみ”が返すシーンもあります。これに関しても、死んでしまった祖母が聞いているはずはないわけですよね。そして、「おばあちゃんはきっと、天国から私たちのこんなやりとりを聞いてくれてるよ」みたいな話でも、きっとないと思うんです。でも、それでもそこで「ぜんぶ聞いてるよ」と言う“あゆみちゃん”の言葉が、すごく印象的で。ここではそう言っておかないわけにはいかない、という何かを感じるというのか――。
藤田 この作品は明らかに再演しようと思ってるんですけど、あのシーンのあの言葉に関しては、“あっちゃん”(成田亜佑美)ともずっと話してましたね。きっと、“あゆみちゃん”はそう言わなきゃいけなかったんでしょうね。だから――そう、なんか何を書いていても、申し訳ない気持ちになるんです。ばあちゃんが思ってたことかどうか、わかんないから。ばあちゃんはああなっても、全部聞いていたのではないか。これは僕の想像/妄想でしかない。だけど、残された我々は何かしらやはり想像しなきゃいけない。“あおい”とのやりとりの中で、“あゆみちゃん”はあの場で、ああやって言い切ることが重要な気がして。なんか――なんていうんですかね。これ、インタビューの答えになってるかどうかわからないけど、あそこは大切だなと思いつつ、難しいなと思いますね。
――『cocoon』からの流れで言うと――これはご本人に尋ねたら、「別にそういうことではない」とおっしゃるとは思いますけど、僕の中でZAZEN BOYSの「永遠少女」という曲は、『cocoon』の延長線上にあるんです。その曲にも「1945年」という年号が語られて、「あなたのおばあちゃんは写真の中で笑っている」という歌詞も出てきます。今回の『dusk dark dawn』は、ある部分では「永遠少女」の延長線上にあるなと思ったんです。
たとえば、“あゆみちゃん”が、写真のなかで祖母に抱かれている、幼い日の自分の姿について語る場面があります。そこで“あゆみちゃん”は、「その写真に――わたしの記憶は、写っていない――」と語る。あるいは、その祖母は末っ子だったから、おにいさんたちは戦争へ行ったきり帰ってこなかったから、「“彼女”は――おにいさんたちのことを、たいして憶えていない。写真のなかでしか知らない――」と語られる場面もあります。あるいは、施設に入居している祖母が、「写真のなかの、あのひとと――あのひとは――うーんと――だれだったか。名前をおもいだせない」と思う場面も出てくる。
藤田さんの作品では――それで言うと、向井秀徳の世界もですけど――記憶というのは大きなモチーフとなってきましたよね。ただ、今回の『dusk dark dawn』がこれまでと違うなと思うのは、上の台詞にもあらわれていますけど、記憶がどこか曖昧になっているところなんですよね。記憶がだんだんとほどけていく。これは高齢になった祖母だけじゃなくて、“あおい”という登場人物も、「わたし――“彼女”に手を引かれて「ウロコ」というスーパーに行ったことがある――「ウロコ」で――おまけ付きの“なにか”を買ってもらったことがある――“なにか”が、なんだったのか――はっきりとは、憶えていないのだけど――でも、その“なにか”は――わたしにとって、とても大切なものになったし――」と語っています。この台詞をとってみても、これまでの作品とは記憶の扱われ方が違っているな、と。
藤田 そうなんですよね。もう自分達の手元になくなりつつあるものを、どうにか語ろうとするんだけど、でもやっぱりなくなりつつある――。そのあわいみたいなところを描きたかったのはありますね。やっぱり、20代の頃はもっと確信してた気がするんですよ。「これは悲しかった」って。でも、なんか、わかんないんですよね。みんな、どうしてるんだろう?
――わかんない、というと?
藤田 そこはもう、ただ「悲しい」とかでは絶対にない気がしてるんですよね。これは昨日、あっちゃんと話してたんだけど、今回の“あゆみちゃん”って結構面白い役だなと思うんですよね。あんなふうに「お別れが、できていないんだよ」って言って、ばあちゃんの最期の姿を見に北海道まで帰るんだけど、結局のところお別れかどうかもわかんなかった、ってなってるわけですよね。「彼女の姿は、なんか、なんだろう」と。ただ、わからないはわからないんだけど、すごく考えて考えて、北海道まで行ったってことだと思うんです。ばあちゃんのことだけじゃなく、“山のおばさん”のことまで回顧した上で、その上で「ばあちゃんって、誰だったんだろう?」となる。「この人のことを、ほんとうに見れてたのかな?」と。それはもう、ばあちゃんに限らず、誰に対してもそうだと思うんですよね。たとえ親であっても、恋人であっても、こどもであっても、知り得ない時間がいっぱいある。その微妙さを描くときがきてるんじゃないかなってことは思いますね。

――今回の作品は、きわめて個人的な話を、より個人的に描いているところもありますよね。たとえば、「しっかりとした赤い輪ゴム」って話が出てきますよね。最初はごく唐突に、「工事現場で拾った、しっかりとした赤い輪ゴム」という言葉だけが語られて、舞台の終盤で、幼い日の“あゆみ”と“あおい”が大切にしていたこと、お正月に寝台列車に揺られている間も大事に握りしめていたこと、それをなくしてしまったとき、母親はまともに取り合ってくれなかったけど、おばあちゃんだけが間に受けてあちこち探してくれたことが語られます。ただ、その話を聞いたところで、観客からすると――。
藤田 いや、意味わかんないですよね(笑)
――そこで思い浮かんだのは、今年の春に、藤田さんと穂村弘さんの対談を収録しましたよね。そこで昨今のエッセイブームが話題にあがって、実体験を書くってことに対する距離感をおふたりが語っていたと思うんです。今回の『dusk dark dawn』は、きわめて個人的な話であり、実際に体験したことから始まっている作品ではあると思うんですけど、その一方で、おばあちゃんのことは“彼女”と呼んでいたり、郷里の町のことも“あの町”と呼んでいたりと、いずれもダブルクォーテーションで括られています。それによって、この作品を描いた作家にとっては“彼女”は祖母であり、“あの町”は北海道の伊達だけど、観客にとっては別の誰か、別の場所として受け取りうる、というか。きわめて個人的であるがゆえに、どこか普遍的な回路を持ち得ている感じもするんですよね。
藤田 なんか、今日ちょうど役者のみんなと話してたんだけど、僕が描きたかったのはばあちゃんの喪失だけじゃなかったんですよね。『Chair/IL POSTO』のときに、「サンタにもらったものだってなくしちゃう」ってテキストを書いたんだけど、今回の作品には「わたし、わたしたちは失い――失いつづけて、さいごはやはり――骨になる」って言葉があって。それは、必ずしも誰かとの死別ってことだけじゃないと思うんですよね。離婚とか、死別とか、そういう話だけじゃなくて、他人からするとゴミだと思われているようなものとも別れるってことを繰り返してるんだと思うんですよね。それを繰り返して、さいごは骨になる。そこでセレモニーみたいにお葬式がひらかれるのかもしれないけど、我々にとっては、しっかりとした赤い輪ゴムを失ったあの日の夜だって、死ぬことよりも大きな感情が渦巻いていた瞬間だったかもしれなくて。そういう些細なこと――松井秀喜が好きだったとか、力士で言ったら遠藤とかもそうだけど――そういうところにグッときてしまうところがあるんですよね。あと、こういうところで作品の補足的な話をするのは恥ずかしいんだけど、今回はゴミみたいなことを意識したんです。
――ゴミみたいなこと?
藤田 これは書こうとおもってやめたんだけど、たとえば遺骨にしても、山手線の荷台に忘れて帰っちゃう人もいるわけですよね。あるいは、バーとかに忘れていくとか。しかもそれは、あえてかもしれない。もしかしたら、「こんな遺骨、持っていたくねえよ」と思う人もいるかもしれない。恨みを持つ人の遺骨をただその関係性から理不尽に持たされてしまって、極端なことを言うと、それをゴミだと思う人もいる。こんなもの、捨ててしまいたい。そういう人からしたら、僕がこの作品でばあちゃんの身体をこんなふうに描いていることは、胸糞悪いことに思えるかもしれない。こういうふうに膨らませて考えていくと、ゴミとかチリみたいなモチーフを作中に散りばめて、ちょっと話しておきたいなと思ったんです。そこで思い出したのが、しっかりとした赤い輪ゴムだったりしたんですよね。今の生活で言うと、SNSで流れてくる謎の広告を見つめてる数秒間とかってあったりするじゃないですか。死ぬ直前に、「なんであのとき、あんな動画を数秒間も見てたんだろうな」って思い返すんだろうなって気もするんだけど、それで言うと、人生って「ゴミ」みたいなことの蓄積だよなとも思うんですよね。

――藤田さんはこの15年ほど、どこかの土地を訪れて、自分以外の「わたし」が経験した話をもとに作品を描く、ということを重ねてきたところもあります。そして、今回のモチーフとなったのは祖母の死でしたけど、家族以外の死ということも描いてきたところがありますよね。今回の『dusk dark dawn』を経て、これから先、どんな――
藤田 うん。それで言うと――橋本さんには前にも話したことがあるけど、京都に住んでいた男性がいて、その方はもう亡くなったんですけど、亡くなる直前にインタビューさせてもらったんですね。そのときに、さっきの「海に流れ着く」って話じゃないけど、水の流れみたいなイメージが僕の中に浮かんできたんです。現在この瞬間にも、誰かが死んでいる。ただ、その死とは無関係に、水は流れている。だから、水について考えて、改めて描きたいなと思っているんです。今回考えたこととも、繋がっている。20代の頃は、誰かが死ぬってことはとてつもなく大きなことだと思っていたんだけど、ここ数年、周りでいろんな人が亡くなっていくのを見つめていると、僕は見つめることしかできないんだけど、広く見ると大きな流れがあるだけなんじゃないかとも思えてくる。まあ、でも、人を亡くし過ぎている気もする。やっぱり人って、いつかは死んでしまうんですよね。
過去回は以下よりご覧ください。
>>NO.1
>>NO.2
(聞き手:橋本倫史/写真:井上佐由紀)